抱擁
君の取り乱した姿に胸が締め付けられた。
どんな時も強くて泣かなかった翠が、肩を震わせて涙を流し続ける。
結婚式に見せた笑顔の涙はとても綺麗で一生守っていこうと
誓ったのに、どうして約束を守れなかったのだろう。
もしもあの時という仮定は通用しない。
事故だったんだ。なんて残酷な言葉が浮かぶ自分に嫌気が差す。
こうして抱きしめることでしか君を癒せない。
時間が解決してくれるのを信じて待つしかなかった。
流産した事実を知った翠は、泣いて弱りきった体を酷使する。
強く力を込めれば折れてしまいそうなほどやつれてしまった君。
だけど、抱きしめて温もりを伝えることしかできないから、強く強く抱きしめる。
「……っ」
首筋に触れる頬が熱かった。
流れる雫が肩先に落ちて、湿ってゆく。
大丈夫だ。俺がいるから。
精一杯の想いを込めて、背中を撫でた。
やがて声が聞こえなくなったので体を離せば力を失った体が倒れこんできた。
泣き疲れて気を失ったのだ。
無理もない。ただでさえ体に負担がかかっているのに
泣いて余計体力を使ったのだから。
そっとベッドに横たえる。
病室の扉を開けると義父の姿。
「眠りました」
「そうか……」
「彼女の苦しみを癒してあげたいんです」
「そうだな。それができるのは君しかいないんだから」
「ええ。この役目は誰にも譲りませんよ。
翠にはゆったりとした時間が必要ですから、家に連れて帰ります。
屋敷もいいですけど皆気を使うでしょう。かえって気が休まらないと思うので」
「ああ。体力が元通りにならなければ何ともいえないが、
まだ翠も君も若いんだ。きっとまた授かるさ」
「そうかもしれませんけど、亡くなった子供には二度と会えないから
それが彼女にとって一番辛いことじゃないですか。
もしかしたら翠はもう子供はいらないと言うかもしれません。
それはそれでいいと思ってます」
「そこまで考えてたのかい」
「先のことは常に考えておかないと」
子供はいらないと翠が言い出しても受け入れられるように。
もう一人くらいいてもいいかなと言った俺の言葉を抱えて苦しむ彼女を見たくはないから。
かけがえのない命を失ったのは確かだが、翠は一人じゃない。
家族がいるから支えてあげられる。
「こんなに愛されて翠は幸せものだね」
「幸せをもらっているのは僕の方ですよ」
少しでも早くもとの明るい彼女に戻ってくれることを心から願っているのだ。
「私の出る幕はないようだ」
少し寂しげに、でもとても穏やかに安堵の笑みを浮かべて義父はこの場から去った。
病室へ戻ると翠は寝息を立てて眠っていた。
色を失った白い肌と腫れ上がった瞼が痛々しかった。
そっと髪を梳いてやると声が聞こえた。
「……ごめんね」
無意識のうわ言。
ぽろりと一筋の涙が頬を流れるのを指先で拭う。
憔悴した顔はひどく幼く見えた。
再び眠りに落ちた翠を確認して、簡易用ベッドに横たわる。
欠伸と同時に伸びをした。
今日一晩だけでも側にいてやりたいと思う。
大事にしていれば数日で退院できる。
家に帰宅してからの心のケアが重要だ。
翠の髪を梳きながら、悪い夢など見ないようぐっすりと眠ってほしいと思う。
医者は体は治せても心までは治せない。
医者でありながら妻を守れなかった僕にはよく分かる。
毛布に包まって瞳を閉じた。
「おはよう」
簡易用ベッドから起き上がると、椅子に座った。
笑顔に無理をしている感じはあるけれど、幾分すっきりとした顔の翠。
心配そうに見つめることが余計、翠に不安を与えるのだが、
普段どおりにしろというのが無理だ。
まだ僅かしか時間は経ってないのに。
「馬鹿みたい。よくある話とは知ってたけどまさか自分がしちゃうなんて。
間抜けにも階段から落ちるなんて」
自嘲気味の笑みを浮かべる翠をまっすぐ見つめる。
「もういいから」
自分を罵ることで正気を保っているのなら、我を失ってもいいと思う。
支えてやるくらいできる。
「自分の不注意でこうなったのよ。誰も責められないから自分のせいだから余計辛い」
「忘れることは出来ないし忘れては駄目だ。翠は一人じゃないだろう。
僕も砌もいる。あの子は天国へ逝ってしまったけれど、失ったわけじゃないさ」
黙って聞いている翠に笑いかける。
「ここにいる」
手の平を自分の胸にあてた。
目を見開いている頬に空いている手を伸ばす。
熱い雫がぽたりと落ちてきた。
「私がそんな夢みたいなこと信じないって知ってるでしょ」
言葉と行動が裏腹だった。
その証拠に君は泣きながら笑う。悲嘆にくれた顔に色が戻ってゆく。
「胸に夢を抱いてないと人間は生きられないんだよ」
たまらなくなって、目の前の細い体を抱きすくめた。
椅子ががたんと音を立てて倒れる。
幾度となく肩や背が震えて嗚咽を堪える。
「また授かるってお父様も言ってくれたよ?」
「あなたや砌がいればそれでいいわ」
「そうか」
吹っ切れたらしい翠は、俺の腕を解くと強気に笑った。
「陽はもう一人欲しい?」
「君と砌がいるだけでいいよ」
建前じゃなく本音。
子供が多い賑やかな家庭も憧れていたときもあったけれど、今は、どうでもいい。
目の前の笑顔を守れたなら。
二人で幼い砌を一緒に育てていければそれでいい。
君と俺によく似た3歳になったばかりの息子と三人で理想の家族を作っていこう。
「早く元気になって砌に顔見せてあげなきゃ」
「そうね」
クスクスと笑う翠は、普段の調子を取り戻しつつあった。
翠はベッドに横になってこっちを見上げて言う。
「あなたより元気になってやるわ。私が復活した後で慌てなさい」
このうえなく愛らしい憎まれ口を紡ぐ唇を塞いだ。
啄ばんだら熱を感じた。
「じゃあ。家に一度戻ってくる」
そして、白衣姿で今度は病室を訪れるよ。
「ええ、砌の様子教えてね」
「ああ」
病室を出て行く時一度振り返った。
翠はにっこりと笑みを浮かべていた。
「砌、夜泣いてたらしい。操子さんが必死で慰めたって」
「やっぱりお母様がいないと寂しいってことね」
普段の調子を取り戻した翠は、相変わらず冗談めいた口調で。
昼の休憩時に、病室を訪れた僕は安堵で胸を撫で下ろした。
薔薇色の頬に戻るのももうすぐだな。
「青も、遊んでくれてたって」
「まあ後で誉めてあげなくちゃ。ご褒美は何が良いかしら」
二人同時に吹き出す。義弟のネタはかなり彼女の心を元気にさせるようだ。
しなやかで強い君を誰よりも愛してるよ。
君の父親よりもずっとって言ったら独占欲の塊みたいだろうか。
「なあに? さっきからじっと見ちゃって。惚れ直した?」
「まあね」
「あら、偶然ね。私もよ」
差し出した手の平が握り締められる。
ぎゅっと加わった力。
「翠」
「ん?」
「明日も晴れると良いね」
「ぷっ……そうね」
あ、また笑った。
「行くよ」
「頑張ってね」
軽く手を上げれば口の端を上げている愛しい妻の姿。
この顔、安心する。
翠を元気付けているつもりが、逆にパワーをもらったな。
ありがとう。これからもよろしく。
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