コートを纏い、とんとん、とブーツの踵を整えた。
 何か考えていないと緊張でどうにかなりそう。
 青は、ぎゅっ、と手を握ってくれていて、目元を和らげていた。
 マフィンの箱は大事に腕に抱え、ドアを開ける。
「お父様……かあ」
 どんな人なのかな。
 きっと素敵な人に違いない。
 彼を歳を取らせた感じ?
色々考えていたら、頬を摘まれて変な声が出た。
「ふ……へっ」
「七面相してる。分かりやすいな、お前は」
 かあっ、と頬が熱くなる。
「だ、だって緊張と、期待と不安がせめぎあってるんだもの」
「そんなに緊張しなくていいよ。
 沙矢の想像とは違うかもしれないし」
「それはどういう……」
「さあな」
「もう! 」
 いいように誤魔化されて頬を膨らませる。
 出会ってからまだ一年も経っていないだなんて、信じられない。
 過ごした日々が濃密すぎて。 
「今日、お母さんはお忙しいのか? 」
「お休みで家にいると思うわ。どうして? 」
 母も私と同じく土曜日は休みだ。
「先にお前の実家に顔を見せておきたくて」
「あ、後でいいわよ……」
 ぶんぶん、と首を振る。
 いきなりで、びっくりしてしまうかも。
 いやいや、案外普通に対応してくれるか、うちのお母さんなら。
 成人式の折に実家で会った際の母を思い浮かべて苦笑いを浮かべた。
 翠さんと気が合いそう……ってまだ気が早いから。
 ぱん、と頬を自分で打っていたら、青が顎をしゃくって見下ろしていた。
「えっ? 」
「セルフなドM」
「はああ!」
 何を言われた。頭で意味を考える。
 すぐに分かってしまい、唖然。動揺した。
「自分で自分を苛めずとも、夜にしっかり可愛がってやるよ。
 小動物を愛でるように」
「いじめる気でしょ」
「お前の望み通りにしてやる」
 青が楽しそうなので、反応に困った。
「早く出よう。久々に都内を出るんだから」
 手のひらを顔に押し当てている私を尻目に、青は既に平静に戻っていた。
「う、うん」
 結局、青の言うがままに私の実家に顔を出すことになったようだ。
 彼のペースに乗せられていたほうが、のんびり傾向の私にはちょうどいいかな。
 車に乗り込み、助手席に座る。
 母にメールをする間エンジンをかけるのを待ってくれた。
 メールを送ると、返事が、あっという間に来て、驚いた。
「伺っても大丈夫か? 」
「楽しみに待ってるわ、だって。ハートつきよ」
「よかった……。こっちが向かうこと決めても
 了解して頂けなかったら元も子もないからな」
 ほっとした表情の青に、こくんと頷く。
「今日は横浜に泊まって、明日東京に戻ろう」
「予約してるの? 」
「心配しなくても、馴染みのホテルに行けば何とかなる」
「分かった」
「マフィン、どうしよう」
「お母さんに渡せばいいだろう」
「……そうするわ」
 結局、予定変更で私の実家に向かうことになったので
 マフィンは母へあげることにした。
 夜に可愛がられてしまうのか気がかりだ。
 
 実家に行く前に、少し寄り道しようと青が言ったので、
 どこだろうと、思っていたら、海だった。
 今更ながら有名なデートスポットだということに気づく。
 大きな橋は夜は明るくライトアップされて、ロマンティックな気分を盛り上げてくれるのだ。
 の海ばかり見ていて、気に止めなかったけれど。
「ここに泊まるの? 」
 砂浜の見えるホテル。
 狂うほどに抱き合ったあの夜の思い出が蘇る場所。
「そうだな。お前の実家に行ってからまた来ようか」
 青が手を強く握った。
 決して顔には出さないけど、感慨深いのかもしれない。
 まだ肌寒さが残る浜辺を足早に後にした私と青は、
 再び車に乗って、母が待つ実家に向かった。
 家にたどり着くと、チャイムを鳴らす前に扉が開いた。
 な、反応早すぎ。どうして分かったの?
 満面の笑みを浮かべる母に、驚きを隠せないでいると
 青が、丁寧に会釈していた。
「あなたが、青くんね。初めまして、沙矢の母の水無月千沙です」
 いきなり、くん、ってどうなの。
 慌てる私は母と青を交互に見比べた。
 水無月なのは分かっているから!
 母の順応性が半端ではないことを思い知った。
「初めまして。お会いできて嬉しいです。藤城青と申します」
「ええ、知ってますとも。さあ、どうぞ。狭苦しい所ですが」
 恐縮する母に、
「とんでもありません。こちらこそ突然ご無理を言ってしまいまして」
 すらすらと、応じる青。
 この人が緊張で手に汗握る事はあるのか!?
予想通り、まったく動じておらず、それどころか、
 すっかり母をとりこにしている。なんて恐ろしい人!
 玄関から応接間に案内してくれた母は、機嫌が素晴らしくよかった。
 私が持ってきたマフィンとコーヒーをテーブルに並べると、正面に座った。
 青は、姿勢よくソファに座っていて、いつもの彼の姿だ。
 むしろ、私がドキドキしている。
 自分の実家なのに、さっきから落ち着かないのは
 いわゆる結婚の挨拶のために訪れたからだろう。
 母にはそこまで説明していないが、青はそのつもりのはず。
 湯気を立てるカップをいただきますと口に運ぶ姿を目で追う。
「沙矢、さっきから彼ばかり見すぎじゃない。
 いかにも恋してますって目をしちゃって、うらやましいわあ」
「うっ……ごほごほ」
 何も口に含んでいなかったが、むせた。
 二人で一緒にいる時に冷やかされるとこっぱずかしい。
「青くん、この子落ち着きないでしょう。
 世話が焼けて疲れないかしら? 」
「いえいえ、彼女はいつも感情表現豊かで、楽しいですよ」
「何だか含みがある気がするわ」
 意義ありと、睨んだ。彼は、知らん顔で母のほうを見ていた。
 少ししょんぼりすると、ぽんぽんと背中に手が回る。
「構ってあげないと拗ねる所が可愛いんですよね」
「まあ」
「あの、すみません。私遊ばれてませんか」
「心外だな。お母さんに仲いい所を見せているだけだろう」
 青は、人前でも構わず手をぎゅっと握るし、頬に唇を寄せる振りをする。
 意味ありげに見つめてくる母の視線に、曖昧な笑みをこぼす。
「あ、あのね」
「今回は結婚の申し込みをさせていただきたくて伺いました」
 青の真摯な眼差しに息を飲む。
 彼は決意していたのだ。
「……藤城さん、大分順序を間違っていらっしゃるわよね。
 そのことに関しては言い訳されないのかしら? 」
「お、お母さん……」
 不穏な空気に冷や汗が流れる。
「言い訳だなんて見苦しいだけでしょう。
 とうの昔に、彼女とはすべてを分かち合っていますし、
 二ヶ月前から同じ場所で暮らしています。
 今日まで何のご挨拶もできなかったことは、本当に申し訳ありません」
 淡々とだが、真実を告げる。
 てらいもなく正直に言ってしまう彼に、少しの気後れと大きな安堵を感じた。
 母には彼との日々も何となく話していたし同棲したことも告げていた。
 あの時、特に怒ってもなかったはずなのに、彼の目の前で、
 感情を堪えきれなくなったのか。
「彼女は、どんな時も至らない自分の側にいてくれた。
 傷つけて苦しめた分も、これからは幸せにしてあげたい。
 一緒に、幸せにならなければならないんです」
 静かな口調には並々ならぬ感情がこもっていた。
「あなたが、そういう人でよかったわ。
 だって、大人の男が、未成年の女の子に手を出して捨てたなんてねえ。
 沙矢の人生が台無しだもの。
 でもずっと手を離さないでいてくれたのよね」
 出逢ったあの日は19歳で、最近20歳になったばかりだ。
 うつむき加減だった視線を上向けて、母に強い視線を向ける。
「本当、綺麗になったわ。汚れるだけだったら、こんな  風じゃなかったでしょう」
 母の言葉も視線もぐっと柔らかくなって、ようやく息をつけた。
「幸せになりなさい」
 青と、視線を交し合う。心からの笑みが浮かんだ。
「意地悪言うつもりじゃなかったのに、ごめんなさいね。
 あなたが沙矢の話通りのいい男でよかった」
 これは外見のみを言っているのではなくて、彼の内面を見てくれているのだ。
 差し出された手を青は、握った。
「いいえ。結婚を許していただきありがとうございます」
 立ち上がり頭を下げる姿に、目元が潤んだ。
 私、あなたを愛して誇りに思うわ。
「そうだ。今日は泊まっていくんでしょう? 」
 母は、私と青を見てにっこり微笑んだ。
「そのことなんだけど……」
「ありがとうございます。お言葉に甘えてもいいですか? 」
 青の完璧な笑みに、彼にはかなわないと感じた。
 またもや言葉を遮られてしまったわ。
「はう! 」
「どこか痛いのか? 」
 顔を覗き込まないで!
 手をぶんぶんと顔の前で振っていたら、
お母さんは、うんうんと頷いて応接間から消えた。
「青はどこでも青なのね」
「今日はお前の家族に会えてはしゃいでしまったよ」
「はしゃいだって……」
 青は、会話の合間にしっかりと紅茶とマフィンの皿を空にしていたようだ。
 私はマフィンを食べないまま紅茶だけを飲み干していた。
 お母さんもマフィンを全部食べてくれている。
「ホテルに泊まらないの? 」  
「お母さんが、折角おっしゃってくれたからな。
 近い将来義理の息子になる身としては
 親交を深めるのにいい機会だし」
「青にお母さんって言われて、心が温かいわ。
 家族って感じがして」
「そうだな」
 食器の片づけをしようとキッチンに向かったら、母が冷蔵庫をチェックしていた。
「買い物しておいたから、問題ないわね」
「もしかして、最初からそのつもりだったの? 」
「娘とフィアンセが、遊びに来るんですもの。
 ご飯くらい一緒に食べたいなとは思ってたわ」
 先ほど見せた険ある様子は、垣間見られず今日最初に目にした母に戻っている。
「お母さん、青のこと怒ってたの? 」
「複雑な気持ちにならないわけないでしょうが。
 でも……あの子、立派に成長して本当にいい男になったわね」
 今日は衝撃を受けてばかりだ。
「えっ、青のこと知ってるの!! 」
 声を張り上げた私に、うるさいと耳を塞ぐ母。
 う、ごめんなさいとぼそぼそ言っていたら意外な答えが返ってきた。





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