愛しい人よGood Night


 ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出しそのままペットボトルを傾ける。
 時折顎を伝い落ちて零れては腕で拭う。
 かろうじて、ぷはあとは言わない。 
 ごくごくと音を立てて飲むと半分残して冷蔵庫にしまう。
 今夜は珍しく喉が渇いて眠れなかったが、水を飲んで一息ついた。
 愛煙家ではない涼は煙草は吸わない。
 未成年の時に吸ったことがあるのだがすぐに止めた。
 順番が間違っているのだが、ハマらなかったので吸ってみてよかったと思っている。
 煙草はさっさと卒業したが、菫子中毒は止められなかったのだけれど。
寝室の前まで戻るとなにやら寝言が聞こえる。
 涼は、扉に頭をくっつけて耳をすませた。
「涼ちゃ……むにゃむにゃ……」
 むにゃむにゃの部分ははっきりとした言葉になっていない。
 寝室の扉を開けると半開きになった唇の無防備な妻の姿が見えた。
 悪戯心が芽生えるのは、当然と開き直り涼は、
妻・菫子の眠るベッドに近づいていった。
 ほんの数分程度いなかっただけだが妻は、寂しさに堪えられなかったようだ。
 もそもそとシーツの中に潜っても気づかない。
 音を立てないように気をつけているわけでもないのに、まったく無反応。
 眠っているにも拘らず切なげな表情で枕を抱きしめている。
 布団に包まって丸まっている姿は蓑虫(みのむし)のようだ。
 夢に見る位恋しいのなら抱いて眠ってやるのに。
 涼は心の中で呟く。
潜った布団の中で菫子の体を捕まえた。
 自らの体で押さえつけることによって。
 夫婦という親しい間柄だからできる体格差を利用した荒業である。
「ん、何か重苦しい」
 ようやく意識が覚醒したのか体をじたばた動かし始めた菫子に、
 涼はますます力を入れて拘束する。
 ついでに首筋に息を吹きかけてみた。
「きゃああ」
 過剰反応に口の端を上げる涼。
「ええ加減気づけや。寂しいやん」
「え、あ、涼ちゃん」 
「俺の夢でも見た? 」
「わ、私、何か言ってた? 」
「涼ちゃ……むにゃむにゃ……って聞こえたなあ」
「……盗み聞きしたのね! 」
 夜中なのに菫子は相も変わらずテンションが高い。
「阿呆やな、寂しいなら寂しいって言えや」
「私は別に」
「疲れてる俺に言えないって? そんなに心の狭い男やないで」
「涼ちゃん」
 涼は体の拘束を解くと、菫子から距離を取った。
「ほら」
 ぽんぽんとシーツを叩いて手招く。
 腕を広げて董子の収まるスペースを作っている。
 菫子はこっくりと頷くと涼の腕の中に収まった。すっぽりという表現が正しい。
 背中に腕を回されぎゅっと抱きしめられると自らも広い背中に腕を回した。
「あったかい」
 菫子は、今でも涼にときめき続けている。
 初めての夜のように、抱かれる時は胸が高鳴る。
 もう数え切れないくらい夜を共にしたはずなのに、
 初めての時の気恥ずかしさを感じている。 
 大好きな人だから。それ以上の説明はできない。
「うん、ぬくい」
 涼も、彼女に出会って初めて本当の温もりを知った。
 付き合う以前の大切な友だちだった頃からずっと、変らない。
 彼女は昔から一途に自分を思っていてくれた。
 たまには喧嘩だってするけれど、それでいいのだ。
 本音でぶつかり合うことでお互いのことを知ることができる。
 全部が全部理解し合えなくても、何も話さず鬱憤を溜めるよりいいのだ。
 疲れていてもちゃんと会話をし、同じベッドで眠る。
 二人で決めたルールは未だに守られている。
 一つ約束を破れば、また一つとルーズになっていくから。
 涼は頬をすり寄せ、しっかりと抱きしめる。
 だがそれ以上は何もしない。
 無言の沈黙が二人を支配している。
 そして暫くの後、菫子が恐る恐る唇を震わせた。
「だ……」
「だ? 」
 涼は意地悪に聞き返した。
 滅多に聞けないのだから聞いてみたいという思いがある。
 わざわざ菫子が口にするまで行動に移さない辺り徹底しているようだ。
 素直にさせてやろうと。
 抱きしめるだけの行為は、涼ももどかしさを感じている。
 腕の中の小柄な妻もそろそろじれったくなってきているはずだ。
(そろそろ限界なんやろ? )
 涼は、ふうっと耳に息を吹きかけた。とどめである。
「っ」
 案の定董子はびくっと反応を見せた。
 涼は、ますます抱く腕に力を込めた。
 菫子の腕が涼のパジャマの袖をぎゅっと掴む。
 切実な想いが宿っているような。
「いじわる」
「俺が聞きたいのはそんな言葉やないで」
「声が笑ってるわ」
「笑うとるからな」
 状況を楽しむ余裕なんてそもそも最初からない。
 からかって遊んでいるつもりもない。
 今更恥ずかしいのだろうが、それを言わせるのが男の醍醐味というもの。
 涼は、辛抱強く耐えていた。
「抱いて……お願い」
 菫子は目を潤ませしっかりと抱きついてきた。
 背中に立てられた指が絡め合わされて結ばれる感触が伝わる。
 涼は、目を瞠る。柔らかな体全体が叫んでいる。
 触れて。私を感じて。あなたを感じさせて。
 ちょっと意地悪に彼女に揺さぶりをかけるのも
こんなにかわいらしい姿が見られる故だった。
 いつだってひたむきな想いをぶつけてくる菫子が見たい。 
(わがままやな。でも菫子だからなんや。
今まで誰もこんな気持ちにさせたことはない)
柔らかな体をふわり横たえる。
 涼は見上げてくる視線に目を細めて、頬に指を滑らせる。
 瞬きする小さな音さえ耳に届く。
胸の音が、焦燥を呼び起こす。
「めっちゃ好きや」
 こくんと頷いて首筋に伸ばされる腕。
 ゆっくりと唇を近づけて重ねた。
 何度も啄ばんで離すと吐息が漏れる。
 キスが深くなるほどに頭の芯が、ぼうっとし始める。
 二人は夢中で互いに酔いしれていた。

 涼は眠りの世界から目覚めぬ妻の髪を弄ぶ。
 寝息を聞きながら、くるくると指に巻きつけたり頭を撫でたりして
 いとおしさを含んだ眼差しを菫子に向けていた。
「勿体無いから切らんでええ」
 涼が、こないだ言ったばかりなのに、いい加減長い髪にも
 飽きたのか菫子はばっさりと切ってしまった。
 結婚式を終えた直後のことだった。
 腰までもあった髪が今は肩より少し下を揺れている。
「また伸ばさんと許さへん」
 些か子供っぽい発言をし、くすくす笑う。
 ずれ落ちかけていたシーツを元に戻す。
 涼は胸元に頭を預けてきた菫子の額にそっとキスを落とした。
 安心しきった顔で眠っている顔を見て自分も安堵を覚えている。
 菫子を抱き込んで感触を確かめる。
 二人は一緒に眠りにつくが、起きる時は涼が先に
 目を覚まし朝一番に菫子の顔を見るのだ。

「おはよう」
「ん」
 朝の挨拶を交わす。
 朝陽に照らされた部屋の中、指を絡めて唇を合わせている。
「ねえ涼ちゃん」
「何や」
「私も涼ちゃんの寝顔が見たいのにどうしていつも先に起きてるの?
 寝るのも後からなのにずるいわ」
「体力の差」
「涼ちゃんに敵うわけないわよ」
「運動して体力つけたら、すぐばてんようになるんちゃう」
「……ふう」
 菫子はこれみよがしに吐息を漏らす。
「人のアドバイスを」
「期待以上のものを与えてくれる涼ちゃんがいけないのよ? 」
 冗談めいた顔で言う涼に菫子は真顔になって、最強の殺し文句を吐く。
「男冥利に尽きるなあ」
「え、え!? 」
 涼は再び菫子を組み敷いた。
 首筋に噛み付いて赤い印をつける。
「いい加減起きなきゃ駄目よ」
 菫子は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「お固いなあ。それが董子のええところやけど」
「はいはい」
 カーテンの隙間から漏れてくる陽の光が眩しくて二人とも目を細めた。
 同時に瞼を擦る辺り似たもの夫婦だ。
「あのね、涼ちゃん、私たち結婚できてよかったね」
「何を今更」
「だって初対面の人には必ず兄妹に見られてじゃない。
 今じゃ夫婦になったから間違えられたりしないわ」
 30センチの身長差に加え菫子は童顔。
 未だにメイクなしだと中学生に見られることもある。
 反対に涼は歳相応に大人びた風貌である。
「俺は別に気にせんかったで」
「……涼ちゃんは気にしなくても私は思いっきり気になったの」
「細かいこと気にすんな」
 むうと唇を曲げる菫子に涼が、からからと笑った。
「体格差があるだけでちっとも似てないのにねー。
 どうして間違えられたんだろう」
「見てくれの印象は強いからな」
「お兄さんみたいな涼ちゃんが好きになったけれど
 いざ付き合いだすと兄妹みたいって
 言われるのが死ぬほど嫌になった」
「周りにもずっとそんな感じに思われてたし、まさか俺と菫子が
 付き合うなんて誰も思わんかったやろな」
「涼ちゃん、薫さんと付き合ってたもんね」
 菫子は涼を茶化す。
「薫と付き合ってなかったら確実にお前とは付き合ってなかった」
 涼の言葉が残酷に響くことはない。
 二人は紆余曲折があってここにいる。
 頷く菫子は、窓から外を見やる。  二人とも過去を後悔なんてしていない。
 積み重ねて色んなことを知った。
「私もそう思う」
 完璧であろうとした女性を受け止められなかった涼は、
 不器用でもくじけない女性を新たに選んだ。
 ずっと側に咲いていた小さなすみれ。
 大輪の花よりも、けなげに咲き誇る花が自分には合っていた。
 菫子は屈託なく笑い、泣き怒る。
 大人ぶらずに素のままで居られる。
 菫子も涼と同じ気持ちだ。
「かっこいいだけじゃなくて
 馬鹿なこともする涼ちゃんだから好きなの」
「くくっ菫子らしいわ……誉められてるのかけなされてるのか」
「正直でしょう」
「ああ」
「さてと朝ごはん作ろうねー。起きて」
 休日は一緒に朝と昼の食事を作る。
夜は平日と同じく菫子が作るのだが。
「涼ちゃん、私後から行くから先に行っててくれる」
「ああ、わかったわ」
 空返事をされ頬を膨らませる菫子。
 理由が分かっているが敢えて聞かない涼である。
 窓の方に視線を向けている菫子の顔がうっすら赤い。
 肩まで色づいている。
この分だと全身真っ赤かもしれない。
 要するに恥ずかしいのだ。暗闇の中はともかく陽射しが零れている朝は。
 
それから一週間余り経ったある日の晩酌の時間。
 菫子は、どこかそわそわ落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
 涼は鈍いのかテレビを見ているためかその様子に気づくことはない。
「どうぞ」
「おおきに」
 グラスに注ぐと冷えたビールがこぽこぽと泡立った。
「お前は飲まへんの? 」
 涼の分だけビールを注ぎ、自分のグラスにはお茶を注いでいる。
 ビールとよく似た色だが泡が立っていないので明らかに別物だった。
「うん、いいの」
 かちゃんと高い音を立ててグラスを合わせる。
「どうかしたんか? まさか……? 」
 涼はもしかしたらの期待を込めて菫子に問いかける。
「……ここにもう一人いるの」
 菫子は、こっくりと頷きお腹を手で押さえた。
「マジ!? 」
「14週目に入った所だって! 」
涼は、急病で休んだ同僚がいたため、出勤することになった。
結局、菫子は一人で病院に行くことになり、
 涼は何度も謝ったが、菫子は少し寂しがっただけで
 怒ったりわがままは言わなかった。
  おかげで後から報告する楽しみができた。
「やったな董子」
 涼は力強く菫子を抱きしめた。
 結婚して半年。待ち望んだ知らせである。
「涼ちゃんもありがとう」
 涙を流す菫子の頬にキスをする涼。
 涙よりも熱い唇が、涙を乾かしてゆく。
 秋も深まってきた十月の夜のことだった。


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