君のとなりで眠らせて


 朝の陽射しの眩しさに瞼を擦る。
 となりの彼はまだ寝ているらしく、身動き一つしない。
 浅い息遣いと、寝顔が未だ目覚めていない何よりの証拠。
 体格差の為、腕の中から脱け出すのも一苦労だったのだ。
「ん……」
 そうっと体を揺すって反応を試すが、寝ぼけているようだ。
 ちょっとしたいたずらを思いつき菫子は涼の頬に顔を近づける。
 リップノイズが響くとさすがに菫子は顔を赤らめた。
 ゆっくりと顔を離そうとすると、ぐいと押さえつけられる。
「! 」
 寝ていたはずの者が目を開けているどころか口元に笑みを刻んでいる。
「お、はよ」
「朝から可愛いことすんなや」
「私は涼ちゃんを起そうと思っただけよ」
「付き合いしだしてから友達だった時とえらい変ったよな」
「友達への態度と恋人への態度が同じなわけないでしょ」
 菫子はあっさり切り返す。
 二人は息がかかる距離で会話をしている。
 とばっちりは食らいたくないときっと誰もが思うに違いない。
「腕、離して? 」
 恥ずかしそうに身を捩る菫子に、彼女以上にいたずら好きな旦那様は、企んだ顔で、
「ほんま、わかってないわ」
 小さな肩を掴む腕に力を込める。
「っ……ちょっ、……」
 数ミリほどしか離れていなかった距離が埋まる。
 体を引き寄せられ、涼の上に倒れこむ。
「初めて同じ朝迎えた二人やないんやから」
 笑う声にだってと呟く妻・菫子。
「時々犯罪犯してる気分になるんやで。何か子供抱いてるみたいで」
 菫子はずきっと胸が痛んだ。
 小さいなあと何度も言われているがさすがにこの発言はショックだった。
 コンプレックスは彼が、消してくれたはずだったのに。
「わたし、そんなに子供みたい? 」
「安心せえ。ちゃんと大人の女や」
「……ん……」
 確かめるような激しい口づけ。
 菫子は吐息が漏れるのを誤魔化せなかった。
「ほら」
「もうっ」
 背中に回された腕の熱さに菫子は戸惑う。
 あれだけ愛し合っておきながら、彼の熱は未だ冷めていない。
 菫子を求める熱が。先ほどの口づけのときにも感じていた。
「菫子」
 涼の手が髪に触れ、梳いてゆく。
 菫子にとって彼の手は魔法の手だった。
 どんな櫛で梳くよりもずっと綺麗になる。
 菫子は涼の仕草に酔っていた。
「涼ちゃん? 」
 董子は不安になって名を呼んだ。
 今まで離そうとしても離してくれなかった腕が、急に離れたから。
 呆然としている間にも涼は起き上がり、ベッドから抜け出た。
 ふいをつく涼の行動に董子は一抹の寂しさを覚える。
 涼本人に他意はないのだが、取り残されたような気がした。
 菫子は目を細めて涼を見つめる。
「泣きそうな顔しとる」
「っ」
 菫子は、結婚した現在も過去に捕らわれることがある。
 自分の悪いクセだと自覚しているのに直せない。
 涼がバイク事故に会い誕生日になっても目覚めなかったあの日のことを。
「そんな顔するな。菫子を一人にしてどっか行ったりせえへん。
 誓いをちゃんと胸に刻んでるんやから」
「ん」
「出張とかは別やけど」
 おどけた涼に菫子はクスっと笑う。
「あ、せやった」
「おはよ」
「遅い」
 本気で言い忘れてたのなら呆れる気がしたが、菫子は、そうではないことを知っていた。
 行動で示した後での付け足しの挨拶に過ぎない。
「寝坊しちゃったじゃない」
「ええやん。別に焦らんでも充分時間あるんやから」
「涼ちゃんのせいでもあるものね。手抜きでも我慢してよ」
「手抜きって気づかれんくらいちゃんとできるやろ」
「やってみせるわ」
 菫子は強気に笑ってベッドから立ち上がった。
「明日からは別の起し方考えたから覚悟してて」
「……オーケー」
 涼は満面の笑みを浮かべて寝室を後にした。
 菫子は捲れたシーツを整えると、夫の後を追いかける。
 部屋のドアの前でスリッパを履くと欠伸を噛み殺しながら、キッチンへと足を運んだ。
 因みにスリッパはアニマルスリッパ(うさぎ仕様)だったりする。
 夫の涼が、菫子に似合うだろうと買ってきたものだ。
 自分の年齢を考えるとかなり恥ずかしい菫子だったが、
 涼の気持ちがこもっているので、
 履くのを嫌と感じることはなかった。
 涼が、これを履いて駆ける菫子の姿が好きと言っていたのだ。
 ぱたぱたと音を立てて歩き冷蔵庫を開けると中から食材を取り出して抱える。
 既に牛乳をグラスに注いで飲んでいる夫を一瞥すると、シンクの前に立った。
「コーヒー、今日はどうする? 」
「濃い目でよろしく」
 返事を聞くと菫子はカップにインスタントコーヒーを入れた。
 疲れている時は砂糖を入れてみたり、毎日こうやって飲みたい濃さを聞くことにしている。
 涼の習慣に董子が慣れたのではなく菫子が自らやり始めたことだ。
「今日、遅いの? 」
「電話するわ。普段通りならメール入れるし」
「分かった」
 話をしながらも菫子は手を動かしている。
 涼は、椅子に座って新聞を読んでいる。
 もし大きく広げてばさばさ音を立てていたら親父くさいと菫子に
 吐き捨てられるに違いないだろう。
 テーブルに並べられる皿には彩り鮮やかなメニューが盛られている。
 涼は茶碗を受け取ると、ありがとうと呟く。
 彼は関西弁だが、礼はありがとうと言うのだ。
 照れている時はサンキュ。
「金曜日、午前中お休み取れる? 病院について来てもらおうと思って」
 董子は、今度は弁当の準備をしていた。
 昨日の残り物のポテトサラダをコロッケにして揚げているのだが、
 昨夜の内に衣をつけて下ごしらえをしておいたので、調理もスムーズだ。
 お弁当の支度を整える間、振り返り、涼と会話する。
「……って当たり前やん。
妻の一大事なんやから。午前どころか一日有給とります」
 涼は、玉子焼きに箸をつきさしたまま動きを止めた。
「ありがとう」
 急にテンションが上がった涼に菫子は笑みを零す。
「まだわかんないんだけどね」
「なるようにしかならんやろ」
「そうね」
「検査薬は使ったんか? 」
「だって買うの恥ずかしいんだもの! 」
 菫子の顔は熟れたトマトのように真っ赤だ。
「……今時、高校生だって普通に買うてるんと違う」
「それもそれでおかしいわよ」
 涼のモラルにかける発言に菫子はきっぱりと反論する。
「純な妻で嬉しいわー。他探しても見当たらんやろな」
「からかわないで」
「俺をからかえるようになってみぃ」
 冗談めかした涼の言葉に菫子はリベンジを胸に誓った。
 膝の上で拳を握り締めている。
 ずるずると味噌汁をかけ込む音が、シリアスさを掻き消していた。
「ごちそうさま」
 箸を置いて手を合わせると涼はシンクに食器を運んだ。
 菫子は、横目で確認すると内心焦りつつお弁当を盛り付ける。
 涼と菫子はいつも一緒に起きて朝食の支度を菫子がして、その間、
 涼は新聞を読んだりしてのんびり過ごしている。
 いつもは6時に起きるのに今日は30分もオーバーした。
 怠惰なことにそれは月曜日が多かったりする。
 それを見越して夕食をいつもより多めに作っていたりするのだが。
「貴重な朝の一時は一瞬で過ぎるなあ」
 くすくすと笑いながら涼は階段を上っていく。
 菫子はその背を見送りながら、ご飯の上に鮭フレークをのせた。
 そぼろごはんは涼の大好物だ。
 鶏そぼろの時もあれば鮭フレークの時もある。
 ハート模様を描くのは特別の日だけと決めていた。
 来月の涼の誕生日のお弁当は特別仕様になっているに違いない。
 菫子は出来上がったお弁当に蓋をして包むと大事に抱えて玄関へ向かった。
 段差に座って靴を履いている涼に、
「はい。今日も一日頑張ってね」
 頬にキスをしてお弁当の包みを渡した。
 行ってらっしゃいの意味を込めて。
「行ってきます。すみれ」
頬に返って来るキス。
 カチャと扉が閉まると菫子ふうと息をついた。
「涼ちゃんったら、またすみれって」
 彼が見ていたら思い出し笑いをするのはな……とか、からかわれそうだわ。
 すみれって呼ぶクセ治らないんだもの。呆れも通り越して諦めの境地なのよ。
「お皿片付けて、洗濯っと」
 思考を断ち切り、キッチンへと向かう。
 菫子は、この現実が、ここにあることを感謝していた。
 会社をいわゆる寿退社することも、すぐに決断した。
 家にいて涼にお帰りなさいを言いたかったから。



 会社の昼休み。
 涼は、期待に瞳を輝かせて弁当箱を開けた。
 菫子のいう手抜きは、全然手抜きではないと思う。
 残り物を上手く使うのも知恵だし、一目見ただけでは残り物とは
 分からないほど昨日の夕食の時とは姿が変っている。
 手抜きと気づかれんようにとの発言は裏づけされたものであり、
 過大評価でも試したわけでもない。
「最強やな、菫子の料理は」
 彼に言わせると最高ではなく最強。 
 どんなに落ち込んでいても笑顔に戻れる魔法のアイテム。
 同僚の冷やかしや羨む声を聞きながら、涼は
 自慢げに大口を開けておかずを頬張っている。
 菫子は預かり知らぬことだが涼のデスクの上には菫子の写真が飾ってある。
 結婚式の写真は非常識やしなと涼は言ったが、
 周りに言わせればどっちもどっちだ。
 どんな幸せそうでも自慢げでも嫌味な感じでは
 ないので必要以上のやっかみはない。
 人懐っこさと男らしい快活な性格。
 涼は、周りに好かれていた。
「今度、夕飯ご馳走してくれよ。奥さんの手料理食べてみたい」
「土産持参なら考えてもええで」
「ちゃっかりしてるよ、まったく」
「うちの夕飯食べれるんやから安いくらいやで」
 冗談めかした口調の涼に、同僚の樋口渉は了解と頷いた。
 
「お疲れさま」
 菫子ビールを傾けた。
 週に何度か涼は夕食後に晩酌をする。
 お酒の飲めない菫子はお酌をして彼の相手をするのだが。
「今日も変わったことなかったか?」
 心配性な涼は菫子に聞かれる前に自分から彼女に訊ねる。
「平穏無事な一日だったわよ。涼ちゃんは? 」
「変わりなく滞りなく」
「そう」
箸を一旦置いて一日の報告をする。勿論お互いの顔を見ながら。
「涼ちゃん、そういえば」
「そういえば? 」
「プロポーズの言葉ってどんなのだったっけ? 」
「は!? まさか草壁涼一世一代の名台詞を覚えてないって言わんやろな! 」
 菫子の唐突な発言に涼がいきり立った。
「血圧上がるわよ」
「……菫子が、急にアホなこと言いだしたからや」
「イヴの夜のと大晦日のとどっちが正式だったかなあって」
「両方」
「そっか両方か」
「勿論覚えとるやろ」
 菫子はグラスにビールのおかわりを注ぐ。
 涼はグラスを受け取る手に力を込めた。
「私の口からはとてもじゃないけど言えないわ。やっぱり涼ちゃんが言って! 」
「しゃあないな。耳かっぽじってよう聞けよ」
こくこくと菫子は頷く。
「菫子となら楽しいことも分け合えて、宝物を見つけられるってそう思った。
 絶対幸せになろう、俺ら」
「……恥ずかしげもなくよく言えるわね」
「って言わせといて何やねん」
 夫婦漫才、ここに完成。
「ごめん。照れくさくて。あの時も嬉しくて、胸が詰まりそうなくらいだったけど
今聞いてもじーんとする。あの時が蘇る感じで」
 菫子は胸に手の平を押し当てて瞳を閉じた。
「ずっとあなたのとなりで眠らせてね」
「俺のとなりには菫子しか認めんわ」
 空になったグラスに水滴が伝っている。
 菫子はそれを受け取りながら、
「さ、片付けて寝よっかな」
 楽しそうに声を弾ませた。
「なんや積極的やん」
「違うわよ、馬鹿! 」
 菫子は手が泡まみれなのを忘れ、思いっきり振ってしまった。
「……すみれ! 」
「きゃあ」
 声を荒らげているが顔は笑ったままの涼に菫子も笑う。
 はしゃぎあっている風にしか見えなかった。



 翌朝の寝室。朝の空気に似合わない軽快な音が響き渡っている。
 涼は眼前で繰り広げられる光景に目を疑った。
 今日は一段と輝いて見えるその姿。
「おはよー」
 ライトピンクのエプロンを身に纏った菫子が笑顔でフライパンを叩いていた。
 右手にお玉、左手にフライパンといういでたち。
 朝食を作った後なのかほんのり甘い玉子焼きの匂いが立ち込めている。
「笑いを取れたらなって」
 涼には、照れ笑いする妻がどうしようもなく可愛く見えた。
「俺の女房らしいわ」
 やっぱり最後はどうしてもそこへ行き着く。
 結婚してから益々、自分に似てきているような気がする涼である。
「類は友を呼ぶってことね」
 菫子はそういうとフライパンとお玉を手に部屋から出て行った。
「料理は最強で本人は最恐に訂正」
 涼の一言は幸いにも菫子に届かなかった。
涼はワイシャツに着替えるとスーツのジャケットを手に階段を下りる。
「今日は先に着替えたんだ」
「その方がゆっくりできるかと思って」
 苦笑する涼に菫子は新聞を手渡す。
「今日はコーヒーどうする? 」 
「薄めでええわ……」
 含みがありそうな涼を董子は不思議そうに見つめる。
「珍しいわね」
「いや今日はいっぱいいっぱいで」
 菫子は小首を傾げながらコーヒーの粉をカップに注いだ。
 ポットからお湯を注ぐと香ばしい匂いが漂う。
「フライパンはきつかったかあ」
 独りごちる菫子を見て涼はすかさず突っこんだ。
「場は明るくなるけど頭に響くねん」
「じゃあ、明日は音楽でもかけるわ」
「そうしてくれると助かるわ」
 菫子はコーヒーを涼に手渡すと急に歌い始めた。
 涼はさっきから振り回されっぱなしである。
「なんやそれ」
「明日かける曲! 久々に昔のアルバム聞いたら懐かしくなったのよ」
「サビ歌ってやろうか」
「涼ちゃんの願望ね」
意訳すると夜通し愛すという意味である。
「わかってるやん」
「サビも含めてこの曲私たちにぴったりだと思わない!? 」
「せ、せやな」
 涼は焦った。
 まるっきりラブコメな二人だという事を今更ながら思い知る。
 まだ付き合ってなかったあの頃から、随分変った。
 少なくともコメディとは無縁だったはず。
 菫子も涼に染められたが涼も染め変えられたのだ。
「あ、思考飛んでる」
「たまにはな」
 クスクスと笑い合う。
 涼のカップにはコーヒー、菫子のカップにはロシアンティー。
「俺やったら絶対吐くわ。お茶にジャムやで」
「このジャム甘さ控えめだもの」
「どれどれ……充分甘いわ! 」
 涼が吹き出しかけたのを見て菫子は素早く避けた。
「お弁当詰めなきゃ」
 昨日と違いゆっくりとした朝なので
ふたりで一緒にお茶を飲む時間が取れた。
 涼は朝食もとっているが、菫子は紅茶を飲んでいただけ。
 朝の支度がまだ終っていない。
「菫子、さっきの上手い。座布団10枚」
「……涼ちゃんの反応大好き」

 どうしてもシリアスになりきれないバカップルの日常はこれからも続く。


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