forbidden lover
両親や兄に言わせればいつもは手がかからないのに、時折言い出したら聞かなくなる。
私はそんな童(わらべ)だった。
父、母、歳の離れた兄。
近所も皆、農家で、勿論、うちも農家。
貧しくても心は貧しくないようにという考えの両親の元に育った。
いつも家庭の中は明るくて笑顔で溢れていた。
古いしきたりを守り、他の村との交流を持たず、自分達だけで
自給自足の生活を送る私達の村。
子供の少ない大人ばかりの村。
新しい物を受け入れない閉鎖的な村。
それが嫌とかよりも寂しくて仕方なかった。
古いしきたりが固く守られた世界に虚しささえ感じていた。
誰に言っても受け入れてもらえない。
この日常が当たり前だから。
新しい物を求める私は異端とみなされてしまう。
古い仕来りを頑なに守り続ける村には、
村で生まれた子供達に代々伝えている事柄があった。
東の草原の向こうには、古から生きる獣がすんでいる。
隠れ住んでいる獣の怒りに触れてはならない。
決して草原の先へは行くな。
10歳になった私は、村の秘密を教えられた。
胸が高鳴った。
家の近くで遊んでいるのもつまらない。
私は、掟を破ると分かっていて翌朝、家を飛び出していた。
草原の先にあるという獣が住んでいる場所。
退屈してた私には珍しい物に興味津々だった。
考えるだけでドキドキした。
自分の知らない世界に触れたくて心が勝手に走り出していた。
時々足が縺れて転びそうになりながら走る。
家の前のあぜ道を通り、東へと進んでいく。
緑の原っぱが広がる。
自分の体を全部隠してしまう背の高い草達に紛れて進む。
「後で怒られちゃうかな」
呟きは風に吹かれて掻き消された。
興味に胸をときめかせている私の言葉はどうも嘘っぽい。
サーっという風の流れる音。
気づけば民家がひとつも見えなくなっていた。
「怖くない、怖くないもん」
自分に言い聞かせるように進む。
緑の中を真っ直ぐに。
風の音以外何の音もしない。
静かなのが余計に怖くて、一心不乱に進んだ。
一人だというのを実感してしまうから後ろを振り返ることはしない。
長い長い草の道を進み、その道が終わりを告げた頃、ようやく道が途切れた。
足は既にくたくただった。
目の前に、岩で出来た洞窟があった。
首を曲げて奥を覗き込んでみても、真っ暗でここからじゃ何も見えない。
ごくり。唾を飲み込んだ。
ばくばく。胸が音を立てている。
一歩、一歩と足を踏み入れてゆく。
見たこともない鳥が頭上を飛び交っている。
体は小さくてもくちばしだけは大きいその鳥は
羽音を立てて、聞いた事のない声で鳴いている。
静かな洞窟の中で時折聞こえるその声に恐怖を感じるどころか、
生き物が存在していることに安心した。
ゆっくり奥へと進む。
外は暖かいのに洞窟の中は寒い。
季節がなくて同じ時しか流れないみたい。
小石が足元に散乱している。
躓かないようにしながら奥を目指す。
真っ直ぐ一方に道が伸びている。
気づけば入り口付近にいた鳥たちが見えなくなっていた。
岩壁を伝って先へ進む。
入り口から差し込む光ももう届かない。
すぐ先で何かがぶるりと気配がして、思わず足を止めた。
生きている物の息吹。
「誰かいるの?」
いたとしても言葉が返るはずないのに呼びかけてしまう。
そうしないと心細い。
地面に大きな黒い影が映っていた。
何だろう。
もう一歩足を進めた時、猫のように体を丸めている生き物が顔を上げた。
「何をしに来たんだ?」
驚いた。
自分と同じ言葉を操っている。
「草原より向こうには近づくなと言われなかったか?」
「耳が痛くなるくらい」
「帰れ、食われたくなければな」
綺麗な声。
真っ白な毛。狼じゃない。もっと大きくて。
獣の言葉の内容とは裏腹に、恐ろしさを欠片も感じない。
「あたし、怖くないよ、あなたのこと」
また近づいて距離を埋める。
唸って牽制している獣。
獣の頭の方へ掌を差し出す。
ふわふわ。白い毛は柔らかい。
突如、獣が鋭い牙を喉元に突きつけてきた。
「痛……っ!」
血が流れる。喉元が熱を持っていた。
「帰れと言った」
「嫌だ! ……あなたと友達になるって決めたんだもん」
自分から咄嗟に出た言葉に内心はっとした。
「人間など」
力が込められる。
赤い眼差しが射抜いた。
「こんな所で寂しくない?私もね、友達いないんだ。
周りは大人ばっかりでつまらない」
涙が目じりに溜まっている。
鼻の頭がつんとした。
この涙は、目の前の彼のせいではない。
「どうしてここにいるの?人間に恐ろしい目に合わされたの?
だとしたら私、その人達を
絶対許さないから!」
するすると言葉が出てきた。
微笑んで訴える。敵じゃないと。
目の前にいる獣が恐ろしい存在には到底思えなかった。
探究心は恐れよりも強く胸をざわつかせる。
後から考えれば恐れを知らない子供だから、こんなに無邪気でいられたのだ。
咆哮を上げていた獣、いや彼は途端に静かになり、
喉に加えられていた力が緩んだ。
食い込んでいた爪が引っ込められた。
「…………」
彼は唸るような低い声で何かを呟く。
ふらり。力が抜けてその場にへたり込んだ。
思わず解放された首に手をやると赤い雫が指に滴った。痛みは大したことない。
「私にそんな言葉をかけた人間は初めてだ。
いつもこの姿を見て皆脅えて敵意の視線を向けた」
「私は怖いなんてちっとも思わなかったよ。
だってこんなに綺麗なんだもの」
彼は眼差しをふと細めた後、口元をゆがめた。
「人間を殺したの?」
ぞくり。背筋を駆け抜けた感覚は恐怖じゃなくて、
彼が人を殺したかもしれないという悲しさから。
「人間を殺めたことなど一度もない。そんなことはできぬ!」
声を荒らげた強い口調で獣は言う。
彼が嘘を言っているようには思えなかった。
私を怖がらせてここから遠ざけようとしたんだ。
「こんな所で寂しかったよね。本当はあなたはちっとも怖くないのに、
誤解されて……勝手に恐ろしい生き物みたいに思われて」
彼は首を横に振った。
”別に”とでも言いたげだった。
「名前、なあに? 私はあずみだよ」
「鴎葵[おうき]だ。もう随分呼ばれていなかったが……」
「素敵な名前ね。あなたにぴったり」
「もうここへは来るな。村の者達が心配するだろう」
ぴしゃりと拒絶され、びくんとしてしまうが、言いたいことは言わなければ。
「私、まだあなたに聞きたいことがたくさんあるんだから!
もっと怖い生き物がいたらどうしようとか思ってたけど、
全然怖くなかったし……、お母さんやお父さん達にもちゃんと言う」
彼ー鴎葵ーに必死に食い下がる。
こんな薄暗い洞窟で独りぼっち、寂しいよ。
「やめろ。余計なことをするな」
静かな怒りを見せる鴎葵に自分の子供っぽさを恥じた。
「分かった」
こくりと頷く。
彼の居場所を奪ってしまうことをしようとした自分が愚かしい。
「色々お話してね。一緒に遊ぼう」
にっこりと笑う私に、鴎葵と名乗った白い獣は、何も言わなかった。
それからは、毎日のように洞窟に通った。
鴎葵に会いたくて会いたくて、毎日家を飛び出した。
ただし怪しまれたら困るから日暮れ前までには帰らなければいけなかったが。
そんなある日のことだった。
洞窟を訪れると、人の姿をした鴎葵がそこにはいた。
背までも覆う長い白銀の髪、耳は獣の姿の時の名残。
頬には、禍々しい朱の紋様。
うぐいす色の着物を纏っている。
見惚れてしまう。
「鴎葵って人間だったの?」
「人間の姿も取ることができるだけだ」
「なんで、もっと早く教えてくれなかったの!? 」
物珍しくてじろじろと全身を眺め回した。
人間よりもずっと綺麗だ。
「人間の時も大きいんだね」
「あずみ!?」
困惑している鴎葵。
「獣の姿の時よりも鴎葵が近い」
「前から思っていたが、あずみは変わってるな」
「私は異端なんだって。この村のどことも交流を持たず
自分達だけで行きてる所とか、嫌なの。その事をしきりに言ってたら兄さんに、
お前はこの村に生まれるべきじゃなかったのかもしれないって」
「……それは」
鴎葵の白銀の髪が揺れる。瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。
「周りにちゃんと溶け込んでいるつもりでも、どこかぽっかり穴が開いたみたいで。
どうして周りと同じに生きられないんだろ」
俯く私の頭に掌が乗せられた。
「お前、いくつだ? 」
神妙な顔つきになって鴎葵は言った。
「10歳」
鴎葵は苦笑した後、
「お前は、変化が欲しいのだろう。今まで誰もが
当たり前に思っていたことが、認められない。そんな自分を持て余している」
淡々と語った。優しく、ほっとさせる微笑み。
鴎葵の言う事は良く分からなかった。
もう少し成長していたら分かったのだろう。
くしゃくしゃと髪を掻き混ぜるから頬を膨らませる。
緩めた眼差しがとってもあたたかった。
次の日、鴎葵が背に乗せてくれた。
ふわふわで気持ちよくてはしゃぎ回って、
「もっと早く!」
と草原を駆ける鴎にせがんだ。
呆れている気配が伝わってくるが、振り落としたりするようなことはなかった。
野を掛け、山のてっぺんまで連れて行ってくれた。
鴎葵の背から降りると、澄んだ声が耳に届く。
「ここからよく村を見ていた」
鴎葵は端的に話すから、私は色々想像して言葉を繋ぐ。
村を見渡せるこの山が鴎葵はお気に入りだったのだろう。
「じゃあ、私がまた連れてきてあげる!」
「連れてくるのは私じゃないか」
「意地悪なんだから」
「真実だろう」
「私ね鴎葵といっぱい遊んだりお話したいんだ」
ぎゅっとふわふわの毛にしがみつくと鴎葵はくしゃっと破顔した。
本当に人間みたいだ。
姿が獣だろうと彼は人間より人間らしい。
手のひらを顔に当てて、暫く動かなかった鴎葵が諦めたように呟いた。
「お前には敵わない」
「じゃ決まり!」
満面の笑みを浮かべた。
洞窟の中にいるばかりじゃ、きっと気が滅入っちゃう。
乗りやすいよう頭を低くしてくれた鴎葵の背に跨り、山を降りていった。
「鴎葵って何歳? 人間の姿の時は、20歳すぎくらいに見えるけど」
人間の鴎葵は青い空よりも澄んだ川の流れよりもずっとずっと綺麗だ。
「一定の年齢に達すると外見は歳を取らなくなるだけで、実際は、お前の祖父よりもずっと年上だ」
私は飛び退るほど驚いた(飛び退らなかったけど)。
はあ。やっぱり人間とは違うんだ。
ぽんと手を打つと大声を張り上げた。
「じゃあおじいちゃんよりもおじいちゃんなんだ!」
表現がおかしかったのか、鴎葵が肩を小さく震わせた。
鴎葵は激しい動作はしない。
長く生きているから落ち着いているのか性格なのか。
「素直だな、お前は」
「童っぽいって思ったんでしょ」
「童だろう」
「……そうだけど」
俯く。鴎葵からしたら私なんて赤ちゃんみたいなものなんだよね。
「普通の子供のような一面もあれば、他人とは違う新しい物を見ている。
不思議な童だなあずみは」
意外な鴎葵の言葉に、きょとんとする。
照れてはにかむと頭を撫でてくれた。
「髪撫でるの好きなの?」
「撫でたくなったからだ」
「ぷっ。鴎葵ってば」
真っ直ぐな鴎葵に吹き出した。
人と違って裏がない。キレイな心を持ってる鴎葵。
私はいつの間にか鴎葵が大好きになっていた。
お兄ちゃんやお父さん、お母さんを好きなのとは違う大好き。
世界が鮮やかに色づいて毎日がいきいきと輝いてた。
家族以外でこんなになついたのは鴎葵が、初めてだ。
なつくもしくは慕うって表現が正しいんだと思う。
「それでも、時は流れてしまうのだな」
え、と思ったときには鴎葵は口を閉ざしていた。
何のことだろう。
初めて鴎葵を遠く感じて少し寂しかった。
何ヶ月も家族の目を盗み、草原へと出かけていた。
鴎葵はいつも洞窟で私を待っていて、他愛もないことを話したり
一緒に山に登ったり、駆け抜けるように時は過ぎた。
朝起きて会いに行って、日没には家に帰る。
鴎葵と過ごす日々はずっと続くと思っていたのに現実は脆くも崩れ去った。
朝ごはんの時、いつものように自分の分の握り飯をこっそり笹の葉に包み
「ごちそうさまーいってきまーす」
と、駆け出そうとした私を兄が呼び止めた。
「どこへ行くんだ、あずみ?」
逃れるのを許さないとじっと強い視線をぶつけて。
父も母は黙って様子を窺っていた。
皆は食事を中断し、視線は私の方に一心に集中していた。
「家の周りで遊ぶだけだよ」
嘘をつくと心拍数が上がる。
悪いことをしている気持ちがあるから。
「お前が草原の奥に入っていくのを村の人が見たと言っている。
俺や父さんも母さんもまさか禁忌に触れたとは思いたくないんだが」
兄の声はどこか遠くに聞こえた。
聞きたくなかったのかもしれない。
足が小刻みに震えだす。
「行ってない、私、行ってないもん!」
言葉を重ねるほどに自分の首を絞めると分かっていながら、否定をする。
半ば恐慌状態に陥っていた。
ぽとんと笹に包んだ握り飯が手のひらから落ちる。
ころころと転がったそれは座間から落ち地面に横たわった。
食べ物を摂取する必要がないと彼は言っていたから、
私の分だけ持っていった。
一人だけ食べているのが申し訳なくて、本当に食べないのか
聞いたら、お前の食べている姿を見ていればいいんだ。
と鴎葵は笑った。その言葉に少し顔を赤らめてしまった私だった。
「嘘をつくのはいけないことだと教えなかったか?
お前が嘘をついたことは禁忌に触れたことよりもよほど悲しい」
父がこぼした言葉が胸にのしかかる。
母は苦しげに目を逸らした。
嘘をついたことを謝らねばならないことは分かっている。
けれど口は別のことをつむいでいた。
それが言い訳だと、知るのはもっと経ってから。
「……鴎葵は恐ろしい獣じゃないんだよ。
人間より物知りで、ずっとずっと優しいの」
はっとした時には遅かった。
私は口にしてはならない名前を口にしていた。
「……あずみ、暫く家の外へ出ることを禁じる」
びくっとなった私は、居間から駆け出した。
いつまで?
ほとぼりが醒めるまで。鴎葵のことを忘れて考えなくなるまで。
縛られたら心を頑なにしてしまうって大人なのに分からないの?
自分たちが正しいことを疑いもしないから考えもよらないだけ。
部屋に戻って泣きじゃくる。
今すぐ鴎葵に会いたい。
会いたいけど……、今は会いにいけそうもない。
こんな家の中に閉じ込められたら退屈で死んでしまうのに。
枯れることのない涙を流し続けて、
気がつけば眠りに落ちていた。
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