Ring


大きなお腹を撫でて深呼吸する。
 所構わずひいひいふうとやってたら操子さんにくすくすと笑われた。 
 な、何故。
 いざという時の為に、教わったことを復習していたんだけど。
 お料理をしていてる時の合間にするのは、まずかったかしら。
 一応、人がいないのを見計らってはいるけれど。
「それだけ頑張ってらっしゃることですし、きっと元気なお子様が生まれますよ」
「……そ、そうでしょうか?」
「もちろんです」
 かあっと顔が真っ赤になる。
 せめて場所を考えるべきねと、頬杖をついた。
 ソファに足を伸ばしてマッサージする。
 ここでも、いっちに、いっちと掛け声を上げてしまった。
 大丈夫、誰もいないわ!
 最近、腰が重いというか張るのよね。
 走ったりするのはしんどくなってきた。
「もうちょっとで会えるのよ、うん」
 思わず頬が緩む。掌を当てたら、ぽわんと熱を持っていた。
「……ねむ」
 安心したら眠くなってきた。
 うとうとと、船を漕ぎ始めてしまう。
 あれ。
 目をこすっても眠気が飛ばなくて、私は本格的に眠りに委ねた。
(ううん……今日は……青早く帰ってこないかな)

「いけない! 起きなくちゃ」
 午後二時から水泳教室がある。
 慌てて飛び起きたら、はらりと、毛布が肩から落ちた。
 ふわふわの手触り。操子さんかしら。
 きちんと畳んで、ソファの上に置いておく。
 時計を見たら、それほど時間が経ってなかったので、安堵と同時に驚く。
 寝すぎた感じは錯覚だったのね。
 一時間寝ただけでも身体は楽になるんだわ。
いくら妊娠してるといっても気が緩みすぎかしら。
しゃきっとしなきゃ!
気合いを入れる為に冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出して、開ける。
 お義父さまがいつも飲んでいる物だ。
実は一本分けて下さいと頼んでいた。
 かなり効くよと笑顔で仰ってたけど、体からパワーが漲ってくる。
 その時お腹を力強く蹴られた。わかるのだろうか。
 手のひらを乗せるとほんのり温かい。
 部屋に戻り鞄を手に取ると、
 水泳教室に向かう為に二葉さんに車の用意を頼み、教室が行われる室内プールに向かった。
 水泳教室では、董子さんと旦那様の涼さんに会った。
 菫子さんとは一ヶ月ぶりの再会で、涼さんとは初対面だったのだが、
 おしどり夫婦っぷりにかなり和ませてもらった。
 有給を取って久々に菫子さんに付き添って出かけたのだというが、愛妻家なのは間違いない。
 周りが妊婦ばかりの水泳教室についてくるのだから。
 涼さんの関西弁の軽快なテンポが未だ耳に残ってる。
何となく涼さんと青との対面を楽しみだなあと思った。

 部屋の窓から、彼の車が敷地内に停まったのを確認した。
 今日のことを報告したくてそわそわ気が急く。
 部屋を出て、階段を下りる。
 足取りが弾んでしまい、慌ててぴたっと一時停止した。
「す、すみません」
 後ろから見守る心配そうな視線に気づいて、顔を赤らめる。
「青が君に惹かれたのが分かるね。危なっかしくて放っておけない」
 今日の夕食は珍しく帰りが早かったお義父様と一緒だったのだ。
 優雅な足取りで降りてきて、隣に立たれると不思議な雰囲気に飲まれる。
 ダンディーという言葉がとてもよく似合う人だと思う。
 還暦を迎えているとは思えないほど若々しい。
「もう安定期なんだから、無理さえしなければ夫婦としての時間を持ってもいいんだよ」
 唐突な言葉に目を瞠る。
 思い至るとみるみる内に顔が赤くなった。落ち着いた声音で
 さらっと言うからなんてことない台詞のようだけど、衝撃的な発言だ。
 ベテラン産婦人科医のお父様が言うんだから、大丈夫なんだろうけど、
 妙に意識してしまう。最近、妖しい雰囲気になることが多いのだ。
 人の目がある場所では過剰なスキンシップを取らないように気をつけているが、
 それでも気取られているとしたら、観察眼の鋭さに恐れ入る。
「お義父様……あの」
 自然と腕を支えられていた。
 エスコートされながら階下まで降りると、独特の優しい笑顔で彼は私に向き直った。
 ぽんぽんと頭を撫でられる。
「私の想像だよ」
「墓穴掘っちゃいました?」
 くすくすと笑って、頭から手を離したお義父様に、ぺこりと頭を下げた。
 お義父様はリビングの方に向かっていた。
 玄関先でエプロンの裾を握って、話したいことを順に並べたてる。
 勢いのまま喋ってしまうからきっと無駄になるのは分かっていても、
 あれこれ考えて彼の反応を想像するのは楽しいのだ。
「はーい」
 この屋敷の跡継ぎ(若旦那様と陰で言われている!)
 である彼は律儀に、ブザーを鳴らした。
「ただいま」
 玄関のドアを開けると、腕の中に引き寄せられる。
「お帰りなさい」
 スーツの背中に腕を回した。最近甘えすぎている自覚がある。
 鼻腔をくすぐるのは、香水の匂いではなく彼の匂い。
 めいっぱい吸い込んで確かめる。
 煙草の匂いがしなくなって久しい彼のシャツ。
 ジャケットとネクタイのこの姿も何度見てもいい。毎日見ているけど。
「何かあったのか」
「な、何もないわよ」
「疑わしい」
 内心ぎくりとして、曖昧な笑顔になってしまう。
 しっかりと腰を抱かれて、ダイニングに移動する。
 青がテーブルに着くのを見て、食事の用意の為にキッチンに入った。
 対面式なので、テーブルの上で英字新聞を広げる彼の姿もよく見える。
 鍋の中身を温めてながら、ちらりと見つめる。
 新聞を読むのに夢中で、こちらの視線に気づかない。
「お待たせー」
 声を弾ませて、テーブルに置く。
 ほかほかの湯気が立った皿を彼は、顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「ロールキャベツか」
「いいえ、キャベツの重ね煮よ」
 ご飯を心なしか多めに盛って手渡すと申し訳なさそうに青は言った。
「悪い。さすがに、こんなには食べられない」
「ごめん。遅いもんね」
「沙矢の気遣いは嬉しいよ」
 にっこり笑われ、どきっとする。
 お茶を注いで向かい側に座る。
 青の世話を焼けるのが嬉しいし楽しい。
「側にいるだけでほっとするものなんだな」
「ん?」
「食事を共にするわけじゃなくても、一緒にいてくれるだけで
 落ち着くんだよ。もちろん、相手にもよるけれどな」
 しみじみ言われると照れる。
 最近一緒にご飯を食べることが少なくなった代わりに必ず相伴している。
 一緒にご飯を食べられないのは寂しいけれど、
 同じ時間を共有すること自体が嬉しかったりするんだね。
「今日、水泳教室で菫子さん夫妻に会ったのよ」
 彼は皿の中のキャベツの重ね煮をナイフで綺麗に切り分けていた。
 かけられたソースを適度につけて、口に運ぶ。
「二人のおしどり夫婦っぷりが、素敵だったわ。
 一見、菫子さんのお尻に敷かれているっぽいんだけど、
 本当は涼さんが支えているの。旦那さんを立てるところは立ててるのが理想だなって」
 咀嚼する頃合いを見計らって話しかける。青は丁寧に口元をナプキンで拭っていた。
「他人のことを認められるのは素晴らしいが、自分にも自信を持て」
 瞬きする。
 慌ててお茶のお代わりを注いだ。
「分かってる」
 にやり。青は口元を緩める。
「それでいい」
 弾む気分で、本題に移る。
「青、約束の日は今度の日曜日だけど、大丈夫?」
 念を押すと彼はすぐに返事をくれた。
「必ず行くよ」
「絶対楽しいから」
「自信満々だな」
 拳を握った。
 食べ終わった青が、席を立つ前に食器をトレイに乗せる。
 その隙に彼の手がお腹に触れた。
「動いた」
毎日毎晩確認して無邪気にはしゃぐ彼は普段のクールな姿とは別人だ。
 お腹に頬を寄せて確かめる表情は穏やかで微笑ましい気分になった。
 彼と分け合って喜びは二倍にも百倍にもなる。
 青は、名残惜しそうに頭を離した。
「……やっぱり性別確かめるか」
「生まれるまでの楽しみにとっておくんじゃなかったの?」
 くすくすと笑って歩き出す。
「こんなに元気に沙矢のお腹の中で暴れているんだぞ。
 ……性別が分からないと釈然としない」
 ちょっとむっとした様子の青に笑いをこらえていた。
「男の子かも」
「確かめるのは、よそう」
 あっさりと意見を変えた青に拍子抜けするが、彼の不思議さは今に始まったことではない。
 シンクの前に立ち、にまにま想像を開始する。
(あの二人が並んだ所、目立ちそうだな)
「先に部屋で待ってるから、気をつけて階段上がってこいよ」
 耳元でささやかれて顔が赤くなる。
「わ、分かってるわ」
 青がダイニングから去るのを見届けて洗い物を開始した。
 部屋に戻ると、青はベッドの上に座って、ネクタイを緩めている。
 視線に困るのは何故だろう。あの手つきがやらしいのがいけないんだ。
仕事用の鞄は床に置かれている。
「青、お疲れ様」
 食事を取って一息ついたタイミングで言うのが常になっている。
「ああ」
「そろそろお風呂にする?」
「それとも、お前?」
 口元を押さえた。妖しい視線が真正面から突き刺さっている。
「わ、笑えない冗談だわ」
「風呂にするよ」
 うろたえる私に笑顔で応じると青は立ち上がった。
 すたすたと歩き出す彼に、戸惑いながらついていく。
 差し出された手を掴んで、バスルームへと急いだ。
 先に脱いで中へ入った彼に遅れてもそもそと服を脱ぐ。
「さーや」
 歌うような囁きは、少し掠れている。
「は、はい……今行くわ」
 バスタオルを巻いて、中へ入るとシャワーを浴びる姿がある。
 髪をかき上げながらこちらに背を向けるその姿に一瞬、見入ってしまう。
 少し離れて場所に座りバスタブから洗面器にお湯を掬う。
(それとも、お前? って、あんな顔で言わないで)
 さっきお義父様に言われたセリフが頭から離れずにいる。
 意識していることにどうか気づかれませんようにと祈る。
 浴槽の縁に、手をかけて視線を送る横顔。
 肌を隠すくらいに石鹸を泡だてて、スポンジで洗う。
 その間もずっと青の視線を感じていた。
「はあ……」
 声に出した溜息を、彼が拾わないわけがなかった。
「憂鬱そうだが」
「そんなことないわ」
「後で腰をマッサージしてやろうか」
「い、いい。青こそ疲れてるだろうから、私がしてあげる」
 ぶるぶる首を振った。
 素直にしてもらえばいいのだろうが、余裕なんてない。
「……じゃあ頼むよ」
 呆気なく引きさがった青に拍子抜けする。もっとからかわれるかと思ったのに。
 お湯で体の泡を流してゆっくりとバスタブに向かう。
「きゃあ」
 お湯が溢れる音が響く。
 いきなり立ち上がった青に顔を手で覆う。
 抱きあげられ、バスタブの中に下ろされる。
 後ろから抱きしめられ、胸がきゅんと疼いた。
「反応が面白いから、いじり倒したくなるんだが、未だ自覚してないのか」
「……そんなこと言われても」
 まっすぐ伸ばされた長い足が、ゆらゆら揺れるお湯の中に見える。
青の膝の間で、足を立てる。手でお湯をかくと、ちゃぷん、と波立つ。
 青にもたれかかると、腕の力が少し緩んだ。
「お医者様って素敵な仕事ね」
「急にどうしたんだ」
「そう思っただけ」
 後ろから伸びてきた手を繋いだ。
 肩に頬を寄せる。
「温かくて気持ちいい」
 静かに笑う気配に瞳を閉じる。
「上がろう。このままだと逆上せてしまいそうだからな」
「……うん」
 青から離れると先にバスタブの外へと出た彼に手を引かれる。
 バスルームから出て、着替えている間も体が火照ってぼうっとしていた。
 部屋に戻って、ベッドに二人で座った。
ドライヤーで髪を乾かし合う。
「いい匂いだ」
 そう言って彼は私の髪をひと房掬って口づける。
 青にしようと思ったけど、彼の髪の長さ的により密着しないとできないので諦める。
 エステとかを想い浮かべるとマッサージは直接体が触れることもないし。
 頭を切り替えて、にっこりほほ笑む。
「マッサージしてあげるから」
 私の言葉に彼は、自分から横になった。
   
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