揺籃の季節



 某T大の医学部卒業から数年の後俺は外科医として歩き出した。
 40前後で医師としてスターを切る者もいるというの
だから特に遅いとは思わない。
 遅いか早いかではなくそれまでをどう生きたかだろう。
 医師になるまでは、外資系の薬品会社で別の観点から医療に携わっていた。
 決して無駄足だとは思っては居ないし、過去の経験は医師としてスタートを
 切った”今”の自分に何かしら役に立っている。
 人生何一つ無駄なものなんてない。回り道すら時には必要だ。
 それが後で躓かない為の布石となるならば。
 藤城家は代々医師や医療関係者を輩出してきた家系。
 いわば家業だろう。
 白の一族と呼ぶものもいた。
 藤城総合病院で院長を務める父(隆)を筆頭に、姉(翠)の夫であり
 同医院で内科部長を務める葛井陽の他にも従兄弟や親戚筋も
 別の場所で医師や看護師、薬剤師など医学に携わっている。
 医学を志すのは当たり前という意識が藤城の血を引くものには根付いているのだ。
 誰も皆自分の職業を誇りに思い医療現場で働くのは当たり前という感覚がある。
 生まれた時から医療が身近なものだから。
 俺はその中では変わり者かもしれない。
 医学部を卒業してまっすぐ医師の道に進んでいれば、ようやくキャリア三年目というところだ。
 別の道から医療に携わってみたいという強い願望で、自分の意志を貫いた。
 そのことは高校の時から決めていて親父にも、姉にも伝えていた。
 父と姉がくれた”自分の道を往きなさい“との言葉がなければ今の俺はなかったと断言できる。
 沙矢との出会いも何もかも。
 もし出会ってなかったら今どんな風に生きていただろうか。
 考えても詮無いことだと思いながらも、時々考えてしまう。
 この病院で医師と患者として出会っていた?
 彼女の住んでいた場所から藤城総合病院は距離がある。
 専門的な治療をするべく紹介されて病院を移ってきたのならば
 ともかく風邪を引いたくらいでわざわざ距離があるここに来るはずもない。
 今にして思えば沙矢と出会うために俺は、あの時医師にならなかったのだ。
 運命は、強すぎる引力で俺を翻弄し、ゆっくりと距離を近づけていった。
二人の愛の絆を授かったのは、神がくれた褒美に違いない。
 顎をしゃくり窓を見れば、愛しい妻の姿が見えた。
 今日は今年最初の定期検診の日。
 妻の診察を終えて、自分の持ち場というべき場所に戻れば
 普段以上に仕事に気合が入るというもの。
 現金だなと思っても事実なのだからしょうがないな。


「若奥様、どうぞ」
 双葉さんが外から車のドアを開けて差し出してくれた手をおずおずと掴む。
 「ここで待っててもらうの悪い気がするんですが……」
「おかしな方ですね」
 くすくすと口元に手を当てて笑われると反応に困る。
 大人の女性の雰囲気がそこはかとなく漂っている彼女の側にいると少しだけ気後れする。
「ああ……ご気分害されていたら申し訳ありません。当たり前のことですので。
 これからはお気なさらないで下さいませね」
「じゃあ行ってきます」
 双葉さんは笑顔で頭を下げた。
 走り出しそうな自分に落ち着けと念じながらゆっくりと歩き出す。
 何度来ても大きいなあ。
 この巨大病院を掌握し院長としてまとめてるお義父様を尊敬する。
 産婦人科から始まった当時は医院という規模だったが、
 お義父様の時代でここまで大きくなったのだ。
 忙しそうに行き交う看護師や医師の誰もが私に頭を下げるので
 恐縮してしまう。藤城病院の跡取りである藤城青の妻ではなく
 藤城家の嫁として見られているのだろう。
この病院で産むことを決めてからある覚悟していたことだ。
 産婦人科を目指してすたすた歩いていく。
 待合室を兼ねたロビーにはソファやベンチ椅子があるが、
 まだ妊婦さんの姿はない。私が一番早い患者だ。
「どうぞ? 」
 コンコンと診察室の扉をノックをすると耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
 今朝、お出かけのキスをした後、早く続きがしたいとのたまった人の声だ。
   カチャリと扉を開けてはいると白衣の背中が振り返った。
「1時間振りだな」
 笑顔じゃなくて真面目な顔をしてるのにほくそ笑んでいるように感じるのは
 私が歪んでいるってことですか。まともな目で見れないって。
 お仕事中なのよ彼は。でも絶対心では笑ってるわ!
「そうねー」
 相手が旦那様だとしてもこれから診察されるんだと思うと緊張する。
 その緊張を解そうとちょっと妙な思考をしてしまうだけなのようん。
 自分に言い聞かせていたりした。
 旦那様に診察してもらえる幸運な妊婦なんだわ、私って。
「沙矢、本当に性別知りたくないのか? 」
「いいの。楽しみは取っておいた方が喜びも倍でしょう、
 他の事で内緒ごとは嫌だけどこれだけは内緒にしてて」
「了解」
「名前とか考えてたりするの?」
 青は何も言わない。意味深に目線をくれるだけ。
「とりあえずそこに横になれよ」
 青は診察用のベッドに視線をやり促した。
 ベッドに横たわると、俺様ドクターを見上げた。
思いっきり訝し気に。
「医者喋りはわざとらしいだろう?」
「うん、お医者様と患者を演じてるみたい。お医者様ごっこってあるよね」
「お前意味わかって言ってるか」
「う……うん」
「本物の医者だと余計面白いか」
 顎をしゃくって青はにやっと笑った。
 駄目だ。数ヶ月後の恐ろしさがどんどん増しているわ。
「青、お医者様になる前も白衣が仕事着だったのよね」
「白衣とは長い付き合いだな。お前よりもずっと」
「ほんと似合うよね」
「そうか?」
「うん」
長身痩躯のしなやかなスタイル。
 元々スリムだったが仕事が大変なのか最近また少し痩せたけれど
 鍛えていて適度に筋肉もあるので頼りない印象なんてない。
 男性にしておくには惜しいほどの端麗な容貌。
 何着ても似合うけれど白衣は特別似合うんじゃないかと思う。
「順調だ。エコー当てて写真だな」
「楽しそう」
「ああ」
 素直な答えに嬉しくなった。

 エコーを取った後渡された写真を見て、赤ちゃんが育っていることを
 実感した。まだ胎児で頼りないけど立派な命だ。
「毎日でも診たいがそうもいかないしな」
「当たり前でしょ」
 クスクスと笑う。
 診察椅子に座ると向かいのデスクの青に手帳を渡す。
 さらさらと綺麗な文字が踊っていく。
 他のお医者様だったら口で予定を聞くだけが普通。
 本格的に素で接してくる青に心の中で笑った。  手帳を手渡されて確認する。
「ありがとう、帰るね」
「ああ」
青に見送られ、診察室を後にする。
 白衣を着てる彼が輝いて見えた。
 笑顔がこぼれるのを止められないまま廊下を歩く。
病院内から抜け出れば、いつからそこで待っていたのか、
 双葉さんが車の外(運転席側の辺り)にいて手を振りながら近づくと
 ちょうどいいタイミングで後部座席を開けてくれた。
「お待たせしました」
「ふふ、無邪気な沙矢様を見てると和みます」
「和む? 」
 きょとんと首を傾げると運転席の扉を開けながら、振り返った双葉さんが微笑んだ。
 後部座席に滑り込み膝の上で手を握った。
「出ます」
「行ってください」
 帰ったら、編み物の続きをしよう。
 膝で抱いたバッグを握り締めて、窓から景色を見つめた。
 家に帰り、自分の部屋に戻るとテーブルの上に座る。
 生まれるのは春だから、靴下だけにしよう。
 青のものとは違って小さいのでより細かい作業だ。
 ひと目、ひと目想いを込めて。
 靴下だけなのでさほど時間はかからない。もうすぐ完成するだろう。
 明日からは念願の水泳教室に通う。
 やることがあれば時間なんてあっという間だ。
 その日を迎えるまで頑張るの。
 母親になる為の準備も含めて。
 子供を産むことへの不安なんて吹き飛ばさなきゃ。
 あの苦しい季節を乗り越えた私だからできる。
 確かな自信が胸にはあった。

「どう、美味しい?」
 操子さんから教えてもらった藤城家の
定番メニューを  今日は一人で作ってみたの。
 自分では力作だと思うけれど。
 舌が肥えている青の正直な感想が聞きたい。
お義父様は病院から、未だ帰ってきていないので後で感想を聞こう。
 青はフォークを口にすると黙り込んだ。意味深だわ
 作った張本人としてはこの沈黙が怖いんだから!
「いいの!正直に言ってね?美味しいしか言ってくれないと成長しないでしょう」
「知ってるか、本当に美味いと言葉にはならないんだ」
「もっと素直になっていいのよ」
「何だそりゃ」
 青は、くくっと喉で笑いを噛み殺す。
「疑うのか?」
「何も言わず黙々と食べてる時は美味しいってことね」
「もっと自信持っていい、俺がお前の料理を不味いと言ったことあるか」
 青がグラスを傾けて、飲み物を口に運ぶ。
「沙矢」
 じーっと横姿を見つめられる。
 今日は、白いレースのエプロンをつけていた。
「どう、新妻っぽいでしょ」
「天然」
「何よ、やぶからぼうに」
 ちょっぴり頬を膨らませてしまう。
「あまり見ていると眩暈起しそうだ」
 青が真剣な顔で言うから焦った。
「お喋りで食事中断しちゃったね。青、疲れて
お腹減ってるのに  早く食べて回復してね」
「そうしよう」
 にこにこっとぞっとするくらい優しく青は微笑んだ。
 何か変なこと言っただろうか。
 とりあえず気にしない事にして食事を再開した。


「保護欲と征服欲両方いっぺんに揺さぶりやがって」
「何の話?」
 お風呂の中で話しているとふいに青が言った。
 正面で向かい合ってると柔らかな引力で抱きしめられて腕の中に閉じ込められる。
 赤ちゃんがお腹にいるからぴったりくっつけないので二人の間には少し隙間がある。
「お腹が大きいから大切に守らなければと感じる心と、めちゃくちゃに壊したいと
 思う心が鬩ぎあってる。からかって弄り倒したくなる性格だし、
 理性を抑えるのも大変だ、まったく」
 青は冗談とも本気ともつかない口調と表情だ。
「いじわる」
「ん、どの辺がいじわるだったか教えてくれないか?」
 この上なく意地悪く魅惑的な表情だ。
「繰り返したくないわよ。サドなんだから」
 青の肩に頭を乗せると彼の吐息が、かかる。
 眩暈起しそうなのは私の方だ。
「誉めてくれてありがとう」
 にっこりと笑う気配がした。顔は見えないけど分かる。
「誉めてない!」
 耳の近くで声を荒らげられたら、つーんってするかな。
 ……青が悪いのよ。
「俺はいつだって自分に正直に生きてるんだよ。いいことだろ」
 堂々と開き直ってる。
 ばしゃばしゃとお湯を青の背中にかけると耳元に息を吹きかけられた。
「……私が弱いって知ってて」
「だからだろ」
 それきり私は黙った。
 背中に回された腕がお湯のせいかとっても熱い。
 その腕に自分の腕を伸ばして寄り添う。
 適温に保たれているお湯でも長く浸かっているとさすがにのぼせそう。
 立ち昇る湯気に視界が霞み眠気を誘われて、ぼうっとなる。
 くいっと体を離され、戸惑った次の瞬間、視線を感じた。
 顎を捕らえられ、青の顔が迫ってくる。
「とろんってしてる」
 青はやっぱり笑ってる。
「……眠くなってきちゃった」
 抱き上げられ、お姫様だっこの体勢になった。
 ふわりと降って来たタオルが体を隠す。
 目蓋をこすってよく見れば青の背中にタオルが巻きつけられ、
 前側は、そのタオルに包まれた私が彼の体を隠す役割もしている。
 こんな大判タオルが存在したんだーと本気で感心する。
 まるでシーツに包まれてるみたい。
 そっか部屋で着替えるのか。
 籠の中にある青のパジャマと私のネグリジェを胸に抱いて、洗面所を後にした。


青はパソコンデスクの引き出しからデジカメを取り出した。
 着替えをした後、私だけベッドの上に残して
自分は立ち上がったので何をするかと思えば。
「沙矢」
 隣に座った青に名を呼ばれ横を向くとシャッターボタンを押された。
 不意打ちとは言わない。デジカメ持っているのに気づいていたのだから。
 何気なく横を向いただけ。
 単純な私は策略にはまった。これでは撮ってといわんばかりだ。
「段々と母親の顔になってきたな」
 真摯な眼差しの青が語りかけてくる。
「柔らかくて優しい顔になってる。お前が幸せそうで嬉しいよ」
 俺がその幸せを与えてやれてるんだな」
 ねえ気づいてる?
 私を見てる青もとっても穏やかな顔してるってこと。
 自然と笑みがこぼれる。
 青の肩に凭れると頭に置かれる手のひら。
 少し骨ばってて、けれどごつごつはしてない繊細な指先が髪を一房一房掬う。
 髪を撫でられ手櫛で梳かれると、余計に眠気が増す。
 もう少し彼を見ていたいのに、
 抗っても目蓋が下りていくのを止められなかった。
 目を閉じる瞬間視界の端に映っていたのは私をベッドに横たえる愛しい人の姿だった。


 私は未だぐっすり眠っている青の頬に唇で触れた。
 たまには私からキスしてみたくなったりもするの。
 さっきは右頬だったから、今度は左頬、額へ。 
 音が立たないようにそっと触れる。
 最近、屈む体勢がちょっときつくなってきた。
 もっとお腹が大きくなったらできなくなるから今の内にいっぱいしておきたかった。
 大抵は青からのスキンシップがほとんどだもの。
受身になって待っているだけの女じゃいけないのよ。
「気づかれちゃった!? 」
 つい出来心で首筋に唇を寄せたら音を立ててしまった。
 やばいと思い急いで離れる。
 起こすのはまだ早いから、もう少し寝かせてあげたい。
 さらさらと陽に透けた髪が、横に流れた。静かに布団が動く。
 寝返りを打ったのね、びっくりさせないでよ。
 私ってば一筋縄ではいかない人というのを失念していた。
 そんな簡単な人ではないのだこの人は。
 いつだってこちらの思い通りにはならない。
「心配するな、最初から起きていた」
「な、なっ!」
 平然としていられるはずなどない。
突然聞き慣れたあのウィスパーヴォイスが聞こえてきたのだ。
 足は止まり視線は青に釘付けになる。
 彼は、涼しい顔で起き上がり布団を避けてその場に座ると
 ベッドの側に立っている私の手を引いた。
 すとんと再びベッドの上に腰を降ろす。
「亭主関白ではないから、妻に早く起きろと要求はしない。
 むしろ俺が先に起きる」
「意外に面白いよね、青って」
 吹き出すのを何とかこらえる。
「朝のお前は母性本能で動いていると受け取っていいのか?」
 更に青が言葉を返してくる。平然としていられるはずなどない。
 さっきの言葉はさらりと受け流してくれていた。
 ぽっと顔が染まり指先でシーツを握り締める。
 皺になろうが、後で洗濯して干すのだから関係ない。
「じゃあ青に母性本能くすぐられたってことにするわ」
 ふふふと笑った。
「要求していいか」
「確認取るまでもなくするくせに」
 突っ込んだらニヤリと目の端が笑っていた。
「キスはもっと深く、そうだな吐息が漏れるくらい」
「無理!朝からそんなことしたら倒れちゃう。ご飯作れなくなったらどうするの!」
 いささか大げさだったか。
「俺が作るから別に?」
 青は真顔だ。そう来たか。 
 話は続くらしい。青の方をじっと見つめた。
「これから、暫くの間帰るのが遅くなるんだ。夕食は俺を待たずに先に食べてくれ」
「やだ」
 がしっと青のパジャマの袖を掴んだ。
「沙矢、悪いと思ってる。だけどあまり遅くなるのに待たせるわけにはいかない」
「嫌よ。青が帰るまで待つって決めてるんだもの。
 あなたが帰るまで食べない」
 青がいなくても夕食は一人というわけではない。
 操子さんもいるだろうし、お義父様だって。
 帰りが遅くなる所じゃなく仕事でどこかへ
 行かなければいけない時はどうするつもりなの。
 青が一緒じゃなければ何もかも意味がなくなっている。
 彼を欠いた私なんて考えられない。
 潤んだ目元をやさしい指先が拭う。
 甘やかさないで。これは私のわがままなんだから。
 平穏な日常に浸りきって貪欲になってしまってるだけなんだから。
「お前がわがままになるのは俺のことくらいだな」
 きゅっと重ね合わされた手のひら。
 強く握り締められると堪えていた涙がぽろぽろとこぼれた。
「俺だってお前と一緒に食べたいんだぞ」
はっとした。何故、考えなかったのだろう。
 青も同じ気持ちだということを。
 逸らしかけていた顔を上げてしっかりと青を見つめた。
「……ごめんなさい」
「なるべく早く帰るから、風呂は一緒に入ろう」
「うん」
「操子さんにもよく頼んでおくが、何かあったらいつでも電話しろ。
 身重の妻を置いて仕事どころじゃない。すぐに飛んで帰るからな」
「無理はしないで」
 さっきの態度と大違いだと自分でも分かってる。
 自然と頬が緩んでいた。泣き笑いの表情を浮かべてる。
 目をごしごしと擦ろうとすれば腕に遮られて止められた。
 代わりにまぶたに触れたのは唇。わたしに温もりをくれる物。
「ああ」
 唇が触れた場所の側で声が聞こえるから、胸が高鳴った。
 青の眼差しも触れている唇も言葉の響きもくすぐったかった。
贅沢なゆりかごの中で私は揺られて……守られている。
 居心地が良すぎて二度と離れられないだろう。



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