書斎では、パソコンのキーを叩く音が響いている。
 時計はこの部屋にはない。余計な雑音になるからと取りつけなかったらしい。
 持ち主のイメージぴったりの静かで落ち着いた空間。
 どこを取っても彼らしくて、沙矢はほうと息をつく。
 腕を伸ばす彼に声をかけた。
「お疲れさま」
 邪魔にならない位置に、トレイを置く。
 ほろ苦いコーヒーの香りが漂っている。
 アームレストに腕を置いて、くるりと振り返った彼が  沙矢を見て瞳を和らげた。
「……サンキュ」
「ど、どういたしまして」
 そのまま部屋を出て行こうとした沙矢は、腕をつかまれ、
 自然な動きで椅子の上に誘導された。正しくは彼の膝の上なのだが。
「何故そんなに動揺してるんだ」
「してないわよ?」
 まさかいつもよりも掠れた声に、どきっとしたなんて言えるはずもない。
 なぜならそれは疲労によるものだからだ。
 だがどきどきは加速する一方だ。心臓は強く早鐘を打ち、
 もはや、聞かれてしまっているだろう。
 膝に乗せられた上に腕で体を拘束されていた。
 逃げられるはずもない。
「……お仕事の邪魔になっちゃいけないから」
「邪魔だなんて一言も言ってないぞ」
 くすくすと笑う気配が伝わってくる。
 沙矢の腰を抱いたまま空いた腕で器用にコーヒーカップを傾ける。
 ちなみにカップを持つ手が左だったりした。
   かあっと顔が熱くなり、心臓もばくばく鳴り始めた。
 息が頬を掠める。香水と混ざり合って醸し出されている青の匂い。
 沙矢はたくましい腕の中で、身をよじる。
 至極楽しそうな青の表情にまたしてもどきりとしてしまう。
 ちらり、見上げれば、目元だけで笑った青がちゅっと啄ばむだけのキスをくれた。
 ほのかにコーヒーの味がする。
 思わず机をばしばし叩きたくなった。
 もっと激しいキスだって何度も交わしているのだが、こんな鳥が嘴をつつき合う
 キスは別格の照れが襲う。何故だか不思議なのだけれど。
 ふとディスプレイに目をやれば、真っ暗な画面に球体が浮かんでは
 消えたりするのを繰り返している。
 スクリーンセーバーだ。
 今まで気にして見たことはなかったので、新鮮だった。
(最初から入っている画像っぽい。拘りなさそうだもん。
 あ、右に行ってまた出てきた)
 夢中になって見ている沙矢は突然画面が消えたのに驚いた。
 勢いよく上を見上げてしまう。
 勢いあまったので首が痛みを訴えた。
「どうして画面消しちゃったの?」
 きょとんと聞いた沙矢に、小さなため息が聞こえた。
 耳を澄ましていないと聞こえないだろう微かな吐息だ。
「疲れてるのね」
 腰でも痛いのかと思い沙矢は青の腰をゆっくりと擦った。
「肩揉んであげるから、腕を離して?」
「このままでいろ」 
 囁き声に沙矢は素直に頤を動かした。
 さらさらと髪が揺れる。
 大きな手が髪を撫でている。
 とても丁寧な仕草に大事にされていることを実感する。
「青?」
 名前を呼ぶと、きつく抱きしめられた。
 耳元で声にならない声が聞こえ、体の力が抜けそうになった。
 彼の声には魔力があるのだと常日頃から沙矢は思っている。
 声や吐息だけで腰砕けにされるのは反則だ。
(好きだから腕の中で甘い気分になるのに、これ以上私を好きにしてどうしようというの?)
 ぺろり。
 熱い感触にびくりと背を震わせた。
 背筋を走る快感は、思わせぶりで今の状況のよう。
「……っ、青」
「真っ赤に熟れて美味しそうで」
 誰がそうさせているのだと言いたい。
「りんごみたいに甘酸っぱくないわよ? 」
 寧ろ、未だ今日はお風呂に入ってないので、そんな場所を舐めないでほしかったりした。
「疲れてるんだ。癒してくれないか」
 真剣な声で言われたら断れるはずがない。
 癒してあげるのにはどうすればと考えたが、この膝の上で過ごせば
 いいのだろうと結論に至った。
 別に本当に離れたいわけではない。
 重くないのかとか気がかりはある。
 椅子は、頑丈そうで大丈夫だとは思うけれど。
「沙矢」 
 突然名を呼ばれて妙に意識した。
「はい?」
 語尾が跳ね上がり変な発音になった。
「俺の腕の中にいるのに、どうして他所に意識を向ける。
 おかげでしなくてもいい嫉妬をしてしまう」
 くるりと体を反転させられ、向かい合う格好になった。
 片手であごを上向かせられ、目をそらしそうになった。
 恐ろしく端正な顔が眼前に迫ってくる。
 指が唇の輪郭を辿り首筋へと下降する。
 やたらと頬や額には手で触れたりしない青は、
 素手で肌に触れると、荒れやすいことを知っているからだろうか。
 極めて慎重に触れてくる動きが心地よくて、ふわりとした気分になる。
 気づけば目を閉じて委ねているのだ。
 青だから知っているのは十分ありえそうだ。
 首筋を吸い上げた唇が、痕を残したのが分かる。
 甘い痛みに指を噛む。
 潤んだ眼差しを気取られたらどうしよう。
(煽るだけ煽って楽しんでいるのね)
「っん」
 唇が重ねられいきなり舌が入り込んでくる。
 ねっとりと絡み合って離れる唇。
 なんて猥らなのかしらと沙矢は、頬を高潮させる。
 今度こそくったりと体の力が抜ける。
 だが、我慢した。
 抱擁はとめどなくて、時を止めてしまったみたいで、
 鼻に口づけられてくすぐったくて笑ってしまった。
 きゃっきゃっと無邪気に声を上げる沙矢に、青が微笑みを向ける。
 ふと視界に捉えた手を取って持ち上げる。
 少し骨ばった大きな手。細長い指先。
 こちらの動向を見守っている青に、ウィンクすると
 同じくウィンクを返された。
 チュ。
 軽く触れて唇を離した。
 青が、してくれるのを真似したから、できたのであって
 自分なら絶対こんな場所にキスするなんて思いつかない。
 沙矢は変なところで青に感心していた。
 意味を理解してくれると信じて、改めて見つめた。
「いいのか。俺を調子に乗らせるなよ」
 くっくっ。喉で笑う青に、
「乗ってもいいわよ……って早っ」
 今度は沙矢の手が青の口元までかかげられ、キスをされた。
 自分がしたキスより幾分長く触れた気がしたのは気のせいではないだろう。
「意識するだの、何言ってるんだ今更。
 本当にいつまでたってもうぶだな」
「うぶ!?」
「そこがいい所でもあるが」
「好きなんだから、愛しているのだからそうなるのよ。
 青以外どきどきなんてしないわ」
「当たり前だろ。俺以外にときめくなんて許さない」 
 底知れない独占欲が嬉しかった。
「地球がひっくり返ってもありえないことだわ」
 自信たっぷりに言いきって笑うと、青は口端を吊り上げた。
「いちゃいちゃすることが癒しってことでいいのよね」
「お前と甘い時間を過ごすことが癒しになり、体中に
 清浄な気が満ちてくる」
「青ってスケール大きいわね」
「実際、起きていることだ。
 汚れた俺も、お前に触れて、穢れが落ちた錯覚すら感じる」
「錯覚なんて言わないで。最初から青は汚れてないもの」
「そうか……」
 それきり青は黙った。
 代わりに沙矢を抱きしめる腕に力を込める。
「私も、青の匂いをいっぱい吸い込んでパワーもらってるんだからお互い様よ」
「ああ」
 するりと離れた腕に拍子抜けしてしまった沙矢だったが、
 後ろから抱きついて抱擁することで、青を癒すことにした。
 首に回した手に、彼の手が重なる。
「……俺は今、不埒なことを考えている。当ててみるか」
「当てないことにする」
 青は、沙矢の豊かな胸が背中に押しつけられて、
 欲情の箍が外れる寸前で、堪えていたりした。
 無論、沙矢は気づかないが、何となく雰囲気で察したらしい。
 そそくさと腕を離すと、ドアの所で手を振って扉を閉めた。
「お仕事頑張ってね! ご飯作るからいくわね」
 高らかに響き渡る声を残して。



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