助手席に座ると、彼が、身を寄せてきた。
 半ば覆いかぶさっている。
長い腕が、肩と腰をとらえ、すっかり閉じ込められた格好だ。
 車内は外から見えないように暗幕が降ろされていた。
 運転席にスイッチがあるのだ。
「用意周到…… 」
「お前、昨日から指輪を外しっぱなしとはいい度胸だな」
「それは……、見せびらかすのがよくないかなって」
「は。婚約者からの贈り物だろうが。主張しておけ」
 ブラウスの中に大きな手が潜り込む。
 彼の手のひらの上で、豪奢な指輪はきらきらと光を弾いた。
「見せびらかすのが恥ずかしい代物か?  もっと大きい石のほうがよかったんだな」
「とんでもない! ガーネット、すごい綺麗よ。
 誕生石を贈ってくれたんだなって」
「それならいいが」
「私にはもったいないような気もする」
 私からすれば想像もつかない値段なんだろう。
 それを言ったら無粋で、下世話な気もするから言わないけれど。
「っ……」
 ぐいとネックレスが引っ張られる。
 彼が何を思ったのか、石にキスを落とした。
 上目遣いでこちらを見ながら、笑っている。
「もったいないだなんて思ったら、やるわけないだろ。
 誕生日石をやれなかったのが残念ではあるが、
 この色はお前によく似合っているよ」
「……ありがとう」
 ペンダントから指輪を外し、薬指にはめられる。
 その手を彼がさりげなく絡めてきた。
 長くて骨ばった指。彼の職業に便利なのかもしれない。
「沙矢」
 薄暗い車内で、彼が覆いかぶさってくる。
 耳朶に吹きかかる息が熱い。
 吸い上げられた瞬間に、背をしならせた。
「……帰ろう……青」
 か細い声になってしまい、はっとする。
「そんな顔で言われたって止まれないんだよ」
 肩口に顔をうずめながらも、彼は余裕を残している。
 完全に屈服してしまう前に、抵抗すればいいだけだ。
 唇に指が触れる。どきんと心臓が高く鳴った。
「こうしてくっついているだけでも、本当は幸せなの」
 彼の背中に腕を回す。
 このたくましさにいつも包まれていたい。
 ぽん、ぽんと頭を撫でられて帰ろうかと耳元に声が落ちた。
 頷くと車内に光が戻ってくる。
 陽香は、私達の車が帰らないのを変に思っただろうか。
 もし気づかれてたら明日どう言い訳しよう……。
 走りだす車の中、内心焦りを覚えていた。
 マンションに帰り着くと、また珍客が訪れていた。
 砌くん……じゃない。
 彼よりずっと大人びていて色香を漂わせている。
 陽さんだ。
 青にとってはお姉さまの旦那様なので義兄にあたる。
 家の電話にでも連絡してくれたのだろうか。
 駐車場の空いたスペースに止まった黒い車は、
 少し前に、葛井家で見たものだった。
 ちなみに、陽お兄さまも、黒いシャツに赤いネクタイという派手な格好だ。
 不思議と似合うからくどくはない。
 建物の前に佇む彼は、笑いながら手を上げた。
 黒縁の眼鏡がきらりと光っている。
「こんにちはー、待ってくださってましたか? 」
「いいや、三十分くらいだよ。暫(しばら)く振りだね」
「今日はどうかしたんですか? 」
「たまには弟と、もうすぐ妹になる子の顔を見に来ようかなって」
 青の問いに、しれっとした様子でお兄さまはのたまわれた。
 ご夫婦一緒に行動しないのは何故だろう……?
 疑問が顔に出ていたのか、お兄さまは、
「翠はね、砌が彼女を連れてきてるから、
 おもてなししてるんだよ。明梨ちゃんっていうんだけど」
 さらりと答えてくれた。 
 さすが青の甥っ子。ラブな彼女がいるだなんて!
 あんなかわいい感じなのに抜け目がないわ。
「そうなんですか。うわあ砌くんってばすごい」
「本当は何の用なんですか……? 」
 青はまるきり興味がなさそうだ。
 陽お兄さまの方に視線を向けて単刀直入に切り出した。
 彼も長身だけれど並んでいる姿を見ると、青よりは少し低いようだ。
「青、未だ帰ってきてくれないの? 」
「俺は未だ戻れませんよ? 卒業して何年か計算したら分かるでしょう」
 彼は、やんわりとあしらっていた。
 強く握られた手のひらがぐい、と先へと促す。 
 ちら、と横目で伺うと笑顔のまま陽お兄さまは先を語りだした。
「最近、歳のせいか院長が弱音ばかり吐いてさ、
 どうしたらいいか分かんないんだよねえ。
 やっぱり実の息子が側にいなきゃ駄目なんだよ」
 少し苦味を帯びた口調に、思わず彼の方を見た。
 目元で泣いて口元で笑っているなんて、器用すぎる!
「……何を言ってるんだか。あの人が我儘(わがまま)なのは前からでしょう。
 こんな中途半端な俺が戻ってもしょうがないと思いますけど」
「青、兄さんに冷たいよっ」
「父のことは、面倒をかけますがよろしくお願いします。
 今はまだ俺は、他所の勤務医なので何もできませんし」
 青は、すらすらととどめを刺した。
「お兄さまにも、お父さまにも会いに行きますから。
 みんな大好きなんです! 」
 にこにこ笑ったら、目元を和らげた陽お兄さまが、
ありがとうと笑って去っていった。
「何かあったのかな……」
「そうかもしれない。ないと来るような人じゃないから。
 こっちが突っ込んで聞かないと話さない面倒な人なんだ」
「……臆病なのね」
「ただの腹黒だ。不本意ながら付き合いは長いから、
 あの人の性質はよく知ってる。その腹黒具合いを親父は
 利用しているし……、一筋縄じゃいかない連中だよ」
 そう言いながらも、決して嫌いそうではない。
 とても大切なんだろう。彼も案外素直だ。
 嫌いな人のことをわざわざ口にするはずもないのだから。
「……メールが来てたのか。わざわざマメな人だな」
 うわっ。青、わざとかしら。
 彼は、私といる間中一度も携帯を開かなかった。
 緊急の用なら、電話がかかるだろうから、
 無視でいいと思ったのかもしれない。
 私の想像でしかないが。
「今日は午後まで勤務だったな……。一度家に帰って来たのか?
 神出鬼没にもほどがあるだろう」
 青の場合は月に二度土曜日がお休みで、
 今日はお休みだったから陽香を誘うことができた。
 さすがに彼が仕事なのに、呼ぶなんてことはできない。
私と青は陽香を送った後、映画を見に行き、ランチを楽しんだ。
 今は午後3時を過ぎたあたりだ。
 陽お兄さまが30分待ったというのは本当のことなのだろう。
 もっと待たせていたらさすがに申し訳ないし。
 青は親しい仲だからか、着信をスルーしたことも気にしていないようだ。
「藤城の家に戻ったら、色々生活スタイルを変えなければならなくなる。
 今、この時間を過ごせているのも、彼らが、
 卒業後すぐに総合病院に勤めないことを認めてくれたからだ。
 だから、感謝してもし足りない。
 家に戻ったら今までのような生活ができなくなるのが、
 残念だけどお前がいれば大丈夫かな」
「私こそよ……。くれぐれも無理はしないでね」
「お前に、無理を言わなければならなくなったらすまない」
「今更よ。私はどんなことがあってもあなたについていくわ。
 今まで過ごした時間よりも長くこれから一緒にいるんだもの」
 胸元に手を伸ばし、頬を寄せる。
 回された腕が頭をなで、背中をなでた。
 二人手をつないでマンションのエントランスへ入っていった。
リビングのソファでに座ると肩を抱かれた。
 この密着度は、我慢していたせいだろうか。
 髪や手の甲へのキスといい、甘い行為が続いていて心臓が早なるばかりだ。
 彼と暮らし始めてから二ヶ月少し、たとえ抱き合わずとも、
 同じ部屋で眠らないことなんてほとんどなかった。
「眠れたが、隣りにぬくもりを感じられないのは寂しいな」
「そうね」
「長い間一人にさせておいて言える台詞(セリフ)ではないが」
「私も青と一緒に眠ることに慣れたもの。
 だから寂しいのはとってもよくわかるわ」
 もたれかかる。大きな手が頭を支え、抱え込む。
 暖房なんていらないとは思うけど、彼は私が冷えることを
 気にしてくれていて、部屋に帰り着くとすぐに暖房のスイッチを入れる。
 映画はラブストーリーで、カップルや夫婦と思われる二人が多かった。
 密室でファーストフードのにおいが、こもっていて
 少し気持ち悪くなりかけたが、ミントのタブレットを食べてしのいだ。
 彼から渡してくれた。
 二人でそれを口に含んで映画に集中した。
 私も彼も映画館のような場所で飲み物や食べ物を口にすることを好まない。
 照明が落とされ、スクリーンからの光しかない空間で
 気づけば、うとうとと船をこぎかけていた私は、
 強い刺激を感じて、一気に意識を覚醒させられた。
 耳元で吐息を含んだささやきと、肌にぞわぞわと駆け抜けた刺激。
 手のひらを重ねあわせ指先でくすぐられていたのだ。
 声がもれそうになり、必死でこらえる私をよそに隣りに座る人は飄々(ひょうひょう)としていた。
「せっかくチケット取ったのに見逃すなんてもったいないだろう」
 明るい所で見たら、意地悪な顔で笑っているに違いない。
 口角を上げて、片目を眇める表情だ。
 その顔が、またとんでもなく妖艶だから恐ろしい。
「おかげで眠気は吹っ飛んだわ」
 どうやら、眠りかけたら彼が起こしてくれるらしい。
 安心した私は考えが甘かった。
 もう一度船を漕ぎかけた時は、彼の行動は更にエスカレートした。
 空気に溶けるような小声で耳元に言葉を吹きこまれた。
「……声が我慢できなくなるようなことしてやろうか」
 びくびくっと身を震わせた私はその後一度も眠気を覚えることはなかった。
 本気ではないはずだが、完全に冗談とも取れなかった。
 だって、青だもの。
 ああ、そんな目で見てばかりなのはいけないわ。
 何をすることもなく、背中をぽんぽんと撫でてくれているじゃない。
「陽香を泊めるの提案してくれるなんて思わなかったの。
 彼女と過ごさせてくれてありがとう」
「お前の友達だからだよ」
「青のお友達も呼んでね! 緊張するけどちゃんとおもてなしするから」
「この先もそれはないな。泊まりなんてもっての外(ほか)だ」
「どうして? 」
「たとえ、友人でもお前の側に、身内でもない異性を
 寄らせてたまるかよ。どうせ、無意識で惑わすんだろうし」
「えええ、心狭いわよ? 」
「友達にまで誘い受けを認識されているお前に言われたくないものだ」
「さ、誘い受け!? そんなの青にしかしないもの! 」
脳裏で駆け巡った言葉の意味を考え、ぶるぶると顔を横にふる。
 彼を誘うことなら、できる。誘われるのも。
 それ以外では絶対ない。
「誘うなって言ってもお前には通じなさそうだな」
 顎を上向けられる。チュッ、とかすめる唇は熱かった。
 どくん。顔を赤らめて彼を見つめてしまう。
「私、まじめに言ってるのよ」
「ああ、嬉しいよ。言葉じゃ伝えられないほどに」
「遠慮なら心配いらないからね!
 男性だけで楽しい宴会したいなら、ご飯を用意したら、
 私は陽香の所に遊びに行くわ」
「もし男だけの付き合いがあるなら、他所(よそ)で
 飲んで来ることもあるかもしれないが
 お前を邪魔にしてまで、誰も呼ばないよ。安心しろ」
 ぐいと抱えこまれた頭が彼の胸に押しつけられる。
 



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