アップルパイは、大きなホールで焼かれていて、とてもおいしそうだ。
 一つは、砌くんの分なのでテーブルの上に残しておくらしい。
「沙矢ちゃんが、あんまり美人さんだからあの子照れちゃったのよ」
「翠お姉さまみたいな綺麗な人に言われたら動揺します」
  青もことあるごとに言ってくれる言葉だけど、
 年上の美女から言われるのはまた違って照れてしまう。
「まあ、謙虚なんだから。そこがあの子もたまらないんでしょうね。
 よく突(つつ)かれて遊ばれてない? 」
「あ、いえ……」
口ごもる私にお姉さまは逃すものかと顔を覗きこんでくる。
「はい、遊ばれて……いえ可愛がってもらってます」
「沙矢ちゃん、意味深ね」
「っ」
 お姉さまの食えない笑顔に、あわあわと慌てた。
「全部顔に出ちゃうのね」
「か、からかわないでください」
 ひい。今日で会うの二度目なのに、何というスキンシップ。
 ぐいぐい、迫ってくる感じが青と同じ血を感じさせた。
 おしゃべりで手が止まってしまっていた。
 翠お姉さまは甘い匂いを漂わせているアップルパイの
 真ん中にケーキ用ナイフを入れ切り分けていく。
 私は紅茶の入ったティーポッドとカップを運ぶことにした。
 こぼさないように慎重に運んで、それぞれのカップに注ぐ。
 男性二人に、笑顔で手渡した。
 ここのお家も青のご実家である藤城家も、
 極度の緊張を感じさせない。
 さすがに豪華な昼食には驚いたけど、
 もっと、固いのかと思っていた私は、いい意味で拍子抜けした。
 自分の家みたいにくつろいでいる青は長年の付き合いゆえだろう。
「ねえ、青はお姉さんに対してどうして丁寧語なの? 」
「あははは、沙矢ちゃんったら直球! 」
 翠お姉さまは、ナプキンで口元を拭うと楽しそうに声を弾ませた。
 アップルパイは、皆がおいしそうに頬張っている。
「沙矢ちゃん、青は使い分けているだけだよ。
 本当は大好きで仕方ないけど、時折煙たくなる。
 今は側に来るな。遠ざけたい。そういう時に便利なんだよ」
 お兄さまがとても分かりやすく説明してくれた。
 丁寧語は確かに他人行儀で距離を感じる。
 青のようなご家庭なら丁寧語が当たり前と
 思っていたのだけど、そんな意味があったのね。
「へええ」
 青は無表情で、カップを傾けている。
 長い足は組まずに伸ばしているあたり、お行儀がいい。
 そして、ふと我に返る。私、またやってしまったかもしれない。
「彼が翠お姉さまのことが大好きなのはよく分かりました」
「沙矢ちゃんは怖いもの知らずね。すごいわ」
 感心されてしまった。
「もうすぐ僕らの可愛い妹になるのか。楽しみだな」
 どうやら、お兄さまとお呼びしたことは嫌がられてないみたい。
「こちらこそよろしくお願いします」
「そのことなんですが、結婚式までの準備期間を設けたいので、
 婚約ののち、6月に披露宴をすることにしました」
「そんなの当たり前じゃない。まだ婚約指輪も渡してないの? 」
「14日に渡します」
「ははーん。結婚の返事をもらえて安心しちゃって
 忘れてたってパターンか。抜けてる子ね」
「わ、私もまったく気づかなかったので」
「結果的にジューンブライドを迎えられるんだからいいじゃない」
 容赦ない翠お姉さまに、お兄さまが助け舟を出してくれた。
「6月に花嫁になれるなんて夢みたいです」
「夢じゃなくて現実だろ」
 やっと青はこっちを見て笑ってくれた。
 ただ、彼の笑顔が嬉しくて、じわりと目元が潤んだ。
「あの、お姉さまとお兄さまって今から呼んでて
 あつかましかったら正直に言ってくださいね。
 私、なれなれしいので」
「あつかましいわけないでしょ」
「そう呼んでくれるのありがたいよ」
 微笑みを交わす夫婦は、息ぴったりで
 見ていてこんな夫婦になりたいと思わせた。
 本当にお似合いなんだもの。
「アップルパイ、美味しいです。
 パイって手間かかるのに、お姉さまはマメですね」
「パイ生地から作ってられないから、冷凍のパイシートなんです」
 砌くんが口をもごもごさせながら現れ、種明かしをした。
「文句あるんなら食べたの出しなさいよ! 」
 翠お姉さまが、砌くんのほっぺたをむぎゅっと掴んで押さえつけた。
 彼女より背が高いので軽く背伸びをした状態だ。
「うぐ……っ……」
 顔を真っ赤にしている砌くんは、顔が崩れてもかわいい。
 むしろ、いたいけで涙を誘う。
ほっぺたを掴まれた状態でも、食べてるんだもの。
「ったく、大人げないな。単に人より馬鹿正直なだけだろ。
 許してやれよ」
 フォローになっているのか、更に落としているのか分からない!
 丁寧語を話さずお姉さまと接しているのが自然で、いいなと思った。
 不謹慎だわ。
「せい兄、さ、サンキュ……」
 砌くんは、かばってくれたと解釈したらしく、
 素直にお礼を叔父さんに告げていた。若干、目をそらしてたけど。
 それにしても『せい兄』だなんて。
 叔父さんって呼ばれるより断然らしくて似合うなと感じた。
「あ、沙矢さん、よかったら、さや姉と呼んでいいですか? 」
 立ち直った彼が、こちらに向き直って照れ笑いした。
 隣りで青が静かな眼差しを砌くんに向けていた。
 やっぱり、甥である彼が可愛いのね。
「もちろん。そう呼んでもらえると嬉しいわ」
 手を差し伸べたら、彼はしっかりと握り返してくれた。
「それじゃあ、姉さん、義兄さん、そろそろ失礼します」
「やだ、もう? 夕食食べていけばいいのに」
 そろそろ6時になろうとしていた。
 楽しくて、あっという間に時間がたっていた。
「いや、ありがたいが遠慮するよ。また」
 青がさりげなく目配せしてきた。
 私は二人にぺこりと頭を下げる。
「お忙しい中ありがとうございました。
 お兄さまは午後までお仕事だったんですよね。
 お疲れのところ、騒がしくてごめんなさい」
「気にしないで。会えて嬉しかったよ。
 二人とも来てくれてありがとう」
「結婚式が楽しみだわ。
 沙矢ちゃん、今のうちに覚悟しといてね」
 耳元で続けてささやかれた。
「ちょっと面倒くさいのよね、うち。
 この子、素直じゃないところもあるけど
 優しい子だから隣りで支えてあげてね。お姉さんからのお願い」
 すごくありがたく感じた。 
 信じてくれてるって、分かったもの。
 うち=青と翠お姉さまの育った藤城家のこと。
 認めてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになる。
 こくりと頷いて、お姉さまに抱きついた。
 驚いた彼女は、優しく背中を撫でてくれた。
 玄関先で三人に手を振り別れを告げた。
 精一杯の笑顔に思いを込めて。

「青、いい一日になったね」
 テーブルに夕食のメニューを並べ席に着く。
 一緒に料理を作ろうと伝えたら、沙矢は大げさなくらいに喜んだ。
 楽しそうに笑って、スリッパを履いた片足を浮かせた。
 そんな可愛いポーズを取る女がいるだなんて。
 隙だらけだったが、料理中なのでどうにか理性で堪えた。
 この後は約束どおり、情熱を彼女にぶつけるとして、
 ホワイトデイも平日だろうが、婚約の記念の夜にしたい。
 朝まで離さないなんて無体な真似はするつもりはない。 
 不埒なことを考えているのを察したのか、沙矢が顔をぶんぶんと横に振った。
「どうした? 顔が、異様に熱そうだが」
「な、何でもないから気にしないで。ご飯美味しいね」
 明らかに不審だと思ったがこの後分かるだろう。
「ああ。二人で作ったから余計にそう思えるんだな」 「うん」
 沙矢は、俺が完全に誤魔化されたと思っている。
 相変わらず甘すぎて、あいくるしい。
時間をかけて夕食を終えた後、また二人で片付けた。
「手が荒れないようにしろよ」
「はあい」
俺は男なので構わないが、彼女は女性なのでハンドケアが大切だ。
 流水で洗おうとしたので、湯沸かし器から
 お湯を出し、ビニール手袋も渡した。
 弱酸性の刺激が少ない洗剤にし、
 水仕事の前後にはクリームを塗る。
 今までビニール手袋くらいしか使ってなかったというのが驚きだ。
   夕食の後、ソファでお茶を飲みながらくつろいでいた。
 今日は肉体的より精神的に疲労した。
 沙矢の母は、少し寂しそうだったが気取らせまいと
 立ち振る舞っていたのが切なかった。
 会えない距離にいるわけではないのだから時間を作って会いに行きたい。
 都合を合わせてこちらに呼んでもいい。
 彼女が歳を取ったらきっとこんな風なのだと
 感じさせる姿に繋がりを感じた。
 歳の離れた姉とその夫である義兄、歳の近い甥。
 少しばかり煙たい存在だが、皆沙矢のことを俺の期待以上に受け入れてくれた。
 もとより彼女を嫌う人間がいるはずもない。
 綺麗な心が、外見ににじみ出ているのだから。
 浴室(バスルーム)に向かった沙矢が、出てこないので、  追い駆けることにした。
 拒否権など存在しないのを分からせてやろう。
(好きなように抱いて……か。お前は、どうして無邪気に
 心の琴線に触れてくる。こちらを踏みとどまれなくさせるんだ)
 彼女の姿を描くだけで、どこまでも滾ってくるのを感じる。
 衣服を脱ぎ捨て、素肌には何も纏わないままバスルームの扉を開けた。
 湯気のせいか、彼女の姿が確認できない。
「さーや」
 小さく愛称を呼んだら、ぶくぶくとあわ立つ音が聞こえた。
 派手なリアクションには慣れたが、心臓に悪い。
「どこにも隠れる場所なんてないぞ」
「……私煽ってないから! 」
 掠れた息で、必死に言葉を紡ぐ。
 白い肩が湯船の中に浮いていた。
「こっち向けよ」
 強めに言えば、素直にこちらを振り向いた。
「も、もう……何で今日は隠してないの! 」
 ばしゃばしゃとお湯をかけてくるが、特に痛手はない。
「隠す必要ないだろ。大体、風呂なんて何度一緒に入った?
最初から、隠してなかっただろ、お前も」
 ひとつひとつを区切って言ってやる。
「意識する余裕がなかったんだもの。私はあなたに触れられたくて
 触れたくて、それ以外は考えなかったの」
 頭を洗い、体を洗う。
 そんなこと分かっていた。
 大人であろうと、物分りのいい女でいようとひたむきだったお前。
 愛しい気持ちから目を逸らせば逸らすほどに、
 逃げられなくなった。気持ちは増すばかりで限界を振り切った。
「沙矢」
 湯船に浸かり後ろから、腕を引いて抱え込む。
「くっついていれば平気なんだ!? 」
 おかしくなって、くくっと喉を鳴らした。





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