星明り



   短縮を押したものの、コール音が届いたところで、通話を切りかけた。
 誕生日だから共に過ごしたい?
 そんな浅ましい望みを告げられる立場ではないと、逡巡したのだ。
 電話に出たら、安堵の息をついてしまったのだけれど。
 相反する気持ちで憎まれ口を叩く素直になれない己。
 物分かりがいい彼女は、こちらが望むままの答えを口にした。
 結局、今日という日をこれまでのように過ごしたくなかったのだ。
 大学へ入学し、一人で暮らし始めたあの頃から、記憶に残る誕生日など過ごしたことはない。
 誕生日を特別視していなかったし、普段と変わらない日だと思っていた俺は、
 自分自身の変化に戸惑い、中々受け入れることができずにいた。
(……俺と過ごして、貴重な一日が無駄にならなければいいが)
 詮無いことを思いながら、立ちあがった。
 車のキーの他、最低限必要なものを衣服のポケットに入れると部屋を出た。
 出かけることを唐突に告げても、否と言わないだろうが、
 断られても、彼女の部屋で過ごせばいい。
 同じ部屋で過ごして、二人で帰ってみたいと気まぐれで考えただけだ。
 ホテルの部屋に到着すると、ジャケットを脱ぎ、タイを緩めた。
 シャツの内側にしまったチョーカーに指先で触れると冷たい感触が指に伝わる。
 いきなり電話で告げたにも拘わらず、ちゃんと用意してくれた。
 急いで買いに走ったのだろう。
 選んでいる様子を思い浮かべると知らず笑みが浮かんだ。
 視線を送ると、沙矢はうろたえたのか、ハンドバッグを床に落とした。
 ベッドに腰を下ろしたので、乗り上げて、距離をつめた。
 顎を持ち上げ、手首を掴む。壁に背中を預けた彼女は、懸命にこちらを見つめている。
「いい物をくれたな」
 チョーカーのヘッド部分を手のひらに乗せて、唇を寄せる。
「……喜んでもらえてよかった」
 沙矢は、安堵の笑みを浮かべていた。
 指を繋いで絡めると、熱い痺れが伝わってくる。
 ベッドのシーツを叩いて、沙矢が、誘導していた。
 どうやら、今の態勢が気になるらしい。
 隣りに座り、ベッドの縁から足を投げ出す。
 ジャケットの中から、取り出した煙草を手に取った。
「吸っていいか? 」
「ええ」
 煙草に火をつけたものの、味気なく感じ、すぐに口から離した。
 隣りに煙が届くのが気になったのもあるが、
煙草より瑞々しく甘い唇に触れたいと思ったからだった。
 中途半端な長さで、灰皿に押し付け揉み消す。
 ふ、と目が合い、苦笑した。
「……お前に甘えてるみたいだな」
「あなたが甘えるって似合わないわ」
「誕生日に側にいてほしいなんて、俺は言える立場じゃない」
「私の誕生日を後からでも祝ってくれた時に青の誕生日もお祝いしたいって思ったのよ。
 ……それって彼女でもないのにずうずうしいのかな。
 教えてもらえて嬉しくて、取り乱してたなんて知らないでしょう? 」
 激情を吐き出しているようでいて、口調は落ち着いていた。
「違う。そういう意味じゃない。お前の誕生日を祝いたかったのは
俺だから、それは気にしなくていいんだ」
 噛みあわないのは、お互い譲らないからだ。
「だったら、私にも祝う権利があるでしょ!」
 微かに潤んだ瞳で、声を荒げた彼女を抱きしめたかった。
「……おめでとうってちゃんと言いたかったのに」
 長い睫毛に唇を寄せた。
「悪い」
 舌で雫を掬う。毎度のお決まりの言葉は、薄っぺらい。
 頭を引き寄せて、胸の中に抱え込む。
「……私と居たいって思ってくれたの?」
「ああ」
 嗚咽を堪えた彼女の濡れた声。
「もう一つのプレゼント受け取ってくれる? 」
胸に頬を押しつけてきた。
 俺は、深く、息を吐いた。薄く笑んでしまう。
(……いらないと拒否するはずがないだろうが)
 いつになく積極的な様子をただ見つめていた。
 目の前で、自ら肌を晒し、細い腕を絡めてくる。
 固く張りつめている頂き。急いているのははたしてどちらだろう。
 俺の方も密かに欲望が昂ぶってはいたが、きっと気づいてはいないだろう。
 より密着する為に腰を抱えこんだ。
 顔に影を重ね、唇が触れる距離で見つめる。
 息を飲みこんで、唇を重ねてくる。
 十代の頃のファーストキスを思い出す淡い触れ合いに、
 体の内に眠る炎が、静かに燃え上がっていく。
 彼女の頭を押さえて、深く唇を重ねた。
 舌を絡め合う。
 乱れた息が、重なる中、こちらに応える姿は扇情的でさえあった。
 受け身ばかりではない。
 意思を感じるキスだった。  導かれるままに、肌を辿っていく。
 鎖骨に、小さく口づけたら、低い呻き声が聞こえた。


   昇りつめて、眠りの底に沈んだ沙矢は、満たされた顔をしていた。
 頬に指を伸ばし、触れると滑らかな感触がした。
 薄く開いた唇から、寝息が漏れている。
 俺は、その寝顔を見つめると、ベッドを離れた。
 シャワーを浴びて、バスローブを羽織る。
 タオルで、頭を乱暴に拭いながら部屋に戻ると、健やかな寝息が聞こえてきた。
 めくれたシーツから、豊かな膨らみが見え隠れし、しどけなく
 開いた唇は、口づけを誘うようだった。
 あどけない表情を浮かべた姿を見て、慈しみたいと思いこそすれ、
 身勝手な欲が疼いてしまう己はなんて邪(よこしま)なのか。
(……俺は聖人君子ではない)
 酒を飲んでも酔えやしないし、あまり効果はないが、
 それでも気を紛らわすことはできる。
 部屋に備え付けの冷蔵庫から、常備していたウィスキーのボトルを取り出してグラスに注いだ。
瞼をこすりながら起き上がる姿に目を細めた。
「お酒飲んで大丈夫なの? 」
「ああ。すぐ帰るわけじゃないからな」
 うつ伏せになり、肘をついてこちらを見つめている。
 彼女は、グラスを揺する音を聞いているかのようだ。
無防備にまどろむ姿に、知らず喉を鳴らした。
「今日くらいゆっくりしてもいいだろう」
 シーツの中でもどかしく動く姿に腕を伸ばす。
 唇を舌でなぞり、開いた隙間から舌をねじ込む。
「ん……っ」
「まだ朝は来ない。残念なのか、幸いなのかは分からないがな」
 口元で笑う。閉じこめた胸の中、俯いた彼女の表情は見えなかったけれど、
 大事なものから、目と心を背け都合のいい場所だけ求めていた
 この時の俺には、長い時間視線を絡める自信はなかった。
 

 沙矢と出逢い、関係を持つようになって、今まで以上に仕事にのめり込んでいた。
 厄介なことに、自分ではそのことに気づかず、周囲に指摘される始末だ。
 隙なくこなすタイプだったが、今は、何かが乗り移ったようだと。
『病的』という表現を敢えて避けているのが分かり、真顔で、素知らぬ振りをした。
 高校を卒業し、社会人二年目のOL水無月沙矢。
 今時7つ下はたいした差はないかもしれないが。
 大人の一歩手前の少女との関係で、苦悩している等誰も知るはずがない。
 つかず離れずが、楽で心地よいだなんて、とんだ強がりだ。
 晩秋の空気を嗅ぎながら、夜の海を散歩した日に見た彼女の涙が、脳裏に焼きついて俺を惑わせる。
 部屋から見渡せる景色に目を奪われているようだったが、
 それだけではないと感じたのは、儚げだけれど凛とした表情を見てしまったからだ。
 どうにかして堪えようとする強さに痛ましささえ感じた。
(……痛いのは当然か)
 唇を寄せて熱い雫を拭う。そっと重ねた唇に熱を込めて。
「そんな顔するな……頼むから」
 語尾がかすれていた。
彼女を苦しめていることを罪だと
感じている自分に、安堵し胸をなでおろす。
「泣いてなんかいないわ」
 意地を張る姿がたまらなくて、腕を引いて胸に閉じ込めた。
 聞こえてくる嗚咽。頭を掻き抱いた。
 見上げてくる瞳に、囚われ、瞳の色が変わるのが分かった。
 情欲の炎が、宿っていた。
 しっかりと指を絡める。うるさいほど響くのは彼女の心臓の音。
 肩をついただけで簡単に組み敷くことができるのは、
彼女が俺を受け入れることを望んでいるからだ。
 顔を見つめたら、頬が赤く染まっていく。
 強く指が絡められ、どくんと心臓が鳴り響く。
何度涙を流させているのか。既に数えきれなかったが、今はもはやどうでもよかった。
(望みは同じはずだろう? )
 吐息を絡ませる。
 余分な隙なんて与えずまた唇を重ねる。
 不器用なキスに、内心笑いながら応えていた。
 顎に伝う白い糸を啜る。
 きつく、背中を抱いて、深くキスを交わす。
 茫然としている間に、カーテンを引いた。
(……本当にあらゆる意味で感じやすいな)
 高く跳ねた心臓の音さえ誘発剤となり、体の芯が疼き出す。
 次の瞬間には、彼女の衣服の中に手を忍び込ませていた。
夜の海を見たあの日。暗い気持ちに支配されかかっていた俺を
 その無垢さで、彼女が連れ戻してくれた。


沙矢と過ごす最初のクリスマスイヴ。
最後のにならないように、心の底から願っていた。
 牡丹雪が、ちらちらと舞う中、急いで仕事を片づけていた。
 窓から、空を見上げ、腕時計を見つめる。
「急がなければな」
 体なんて、信じられないほど深く求め合っているが、
 心まで、あと一歩の距離を隔てた二人は恋人未満の関係だろう。
 約束の時間が近づくに連れて焦りが増す。
 沙矢と出逢ったのが、今でよかったと心の底から思う。
 去年までだったら、私生活(プライベート)のことまで  考えられなかったはずだ。
 自分で道を選んだばかりの4月、彼女と出逢った。
「……藤城くん」
 考え事をしていて気付かなかったが、先ほどから呼ばれていたらしい。
 元々興味がないものには意識が向かない性質だったため、
 ああ、何か聞こえるなというその程度だったのだ。
「お疲れ様、ねえ終ったら食事しない? 」
 わかりやすい下心を滲ませて、誘いをかけてくる。
 うんざりした気分をおくびにも出さず貼りつけた
 笑みを同僚に向けた。
 一応礼儀と奉仕のつもりで。
「ありがとう。だが遠慮しておくよ。
 今後もないから、ちゃんとした相手を見つけるのをお薦めする」
 笑みとは裏腹に告げたのは無情な言葉。
 一時の慰めなんか何もならないだろう。
 くしゃりと、一瞬表情をゆがめた女は、
「……ご忠告有り難う。同業者は選ばないことにするわ。それでなくても……」
 意味ありげに言葉を濁したが、敏感に察知した。
「恋愛に家は関係ない。俺には相手がいるから」
「そっか。素敵なイヴになるといいわね」
 それ以上突っ込んだ詮索をしない相手に僅かに感謝を抱く。
 ひらひら、と手を振って去っていった彼女は、  笑顔さえ浮かべていた。
 明日からも変わらず良き同僚として過ごせるだろう。
異性として意識したことは一度もない相手だった。
仕事と恋愛は区別しているし、彼女と同じく同業者とは合わない。
 パソコンの電源を落として、立ち上がる。
 鞄を持ち、ドアのそばにかけていたコートをひっかけると大学病院を出た。
 地下駐車場に向かい、愛車に乗り込む。
 車を加速させ、道路へと出る。
 待ち合わせ場所のホテルに、彼女は来ているだろうか。

ロッカールームで着替えた私は、急いで会社を出た。
 まだ約束の時間まで2時間もある。
 彼に会えるのが待ち遠しくてどうしようもない。
   あの朝、彼がくれた真紅のピアスを今日は身につけている。
 コートも赤を着て、合わせた。
  「青……」
 そっと呟いて、一瞬瞳を閉じる。
 浮かぶのは、ひときわ目を引く長身の姿。
 冷たく整った見た目よりも、ずっと激しい部分を持っていることを  知ったのはいつ頃からだろう。
 終わりにしよう、と一度も言われたことが無くて、
 期待をし続けて、イヴの日まで共に過ごす約束をするとは思わなかった。
 会社の外を歩きながら、考え事をしていた私ははっとした。
 せっかく約束を交わせたのだ。
遅れてはしょうがない。
来なかったら帰れとさりげなく言われたけれど、
最後の機会と考えて待つことに決めている。
   大通りまで出ると客待ちのタクシーがずらりと並んでいた。
 手を挙げながら乗り込み、行き先を指定する。
 彼と会える場所に向けて車はゆっくりと走り出した。



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