7、朝帰り
バイクで送ってくれた涼に手を振って、小走りで部屋に戻る。
思い出すたびに全身が燃えるようだ。
涼が言うボディーコミュニケイションは心も体もかなり消耗する。
すべての意識を彼に支配されて、体ごと受け入れ捧げた後で我に返る。
(我を失うってああいうことなんだ)
浴室では、暫く見はられた状態で体を洗い、結局先に浴室を
出た涼に、ほっとしながらも拍子抜けした。
何を期待していたのか……。
いいように懐柔されている気がして菫子は釈然としなかった。
初朝帰りの事実にめまいがする。
昨日も戻ってきたがあれは、カフェの帰りなので直接涼の部屋から帰ったわけではなかった。
菫子は洗面所で顔を洗い、服を着替えた。
しゃきっとしなければと背筋を伸ばしてスプリングコートを着る。
今日の予定を手帳で改めて確認し、頷く。
大学とバイトでぎっしりと予定が詰まっている。
バイトは今更止める気はない。
調節はしなければならなくなるけれどどちらにしろ、
あと一年続けているか分からない。もう大学三年になるのだ。
「……ということは涼ちゃんと出会って二年が経とうとしてるのね」
片想いをしていた頃は、こんな日が来るなんて思いもしなかった。
ひっそりと思っていたけれど、まさか壊れることを願ったことは一度もない。
二人の想いが誰かを傷つけることになったのだから、
その分幸せにならなければならないのだ。
携帯を確認すれば、メールの着信を知らせていた。
『今日お互いバイトやな。菫子も頑張れ。
時間あったら夜とか会えるかな?』
歯を剥き出しのスマイルマークの絵文字が、分かりやすくておかしかった。
脳内に言葉は浮かぶのに、いざ文字を打とうとするとどうしても指が震えて上手く打てない。
彼のメールを笑った罰だろうか。
むきになって連打してようやく伝えたい言葉が打てた。
慌てず件名を入れて、返信からメールを送ると携帯を閉じ、
忘れ物がないか最後に確認して部屋を出た。
菫子は歩きながら、別の相手にメールを打つ。
『教室で待ってるね』
伊織からの返事は、大学に着く直前に届いた。
菫子が教室に入ると、後ろの方で手を振られる。
伊織は清楚だが、くどくない装いをしていた。
それは出会ってから変わらない永月伊織のイメージそのままだった。
完璧なくらいに綺麗で何にも立ち入る隙を与えない。
菫子は、それに安堵すると同時にどこか悲しみも感じる。
こんな自分でも彼女の支えに少しは、なれているのだろうか。
「おはよう」
「おはよう伊織」
目が合って、笑う。
「菫子……さては朝帰りね」
「え、何で」
菫子は視線を逸らした。
「わかるわよ。ここ」
指さされた先にあった赤い痕に、ばっと頭を机に伏せた。
鋭い指摘に悶絶してしまう。
(涼ちゃん……後で覚えておきなさいよ!)
一番後ろでよかった。近くに人はまばらだし
誰も会話を聞いていない。
それを承知の上で伊織も真顔で指摘したのだ。
服の襟を無理やり引き上げて隠す。
「……伊織と涼ちゃん、どっちが意地悪なのか知りたいわ」
「私も草壁くんも弄りがいがあるって分かってるのよね」
「……愛情表現でいいの」
恨めしげに顔を上げた菫子は伊織に視線を向けた。
「それは当然でしょ」
にこっと微笑まれて、何も言えなくなった。
「あれからまた色々あったのね。
ああ、私の可愛い菫子が、大人の階段を一気に駆け上がってしまったわ」
芝居がかった仕草に、吹き出した。
楽しんでいるならいい。
ネタにされても明るい気分でいられるならいくらでもどうぞ。
菫子は広い心で受け止めている。
時折おどけて見せる伊織は、実際は菫子よりずっと落ち着いている。
頑なに涙を隠しているだけなのも知っている。
大人の階段をとっくの昔に登っているのは彼女の方ということも今なら分かる。
「色々あったわ。はっきり言ってついていくのがやっとよ。
でも、涼ちゃんでよかったってしみじみ思ってる」
「彼は優しいのね」
「嫌になるくらいにね」
「菫子の突っ張ったところも含めて受け入れてくれているんだろうから、
彼でよかったと私もしみじみ思うわ。安心して任せられるもの」
「伊織に信用されているんだったら間違いないのかも」
「何よ、疑問形? 草壁君かわいそうよ」
「いいの。調子に乗るし! 私は飴と鞭戦法でいくの」
「ぷっ……どこまでその宣言続くかしら?」
「気合いは十分だから大丈夫」
拳を固めた菫子に伊織もまた笑う。
授業が終わり、二人は校門で別れた。
菫子はバイトへ、伊織は彼の入院している病院へと向かった。
「いらっしゃいませー」
顔もだが、声の笑顔も心がけている。
それは、研修期間中に教えられたことだったが、
笑顔というのは存外難しいものだと感じる。
営業用であるのは間違いないが、自然に笑えるのが一番だ。
菫子は、バイト先の住所は涼に教えていない。
もし来られたら困るとの思いからだったが、
付き合い始めてしまったため余計そう感じている。
ここには別の大学に通う同学年の同僚がいる。
しかも性別は、男。
……仕事だから、変な誤解はされないと思うが、
案外独占欲強そうだから何か怖いなあと菫子は、店内を掃きながら考える。
「柚月さん、この後何か予定ある」
掃除を終えて片づけていた所で声をかけられた。
考えていた矢先に当の本人が現れたのだ。
「家に帰ってご飯食べて寝ます」
彼氏と待ち合わせと言うのはあからさますぎると思ったので言えなかった。
「そうなんだ。送っていくのも駄目だよね。ごめん聞かなかったことにして」
菫子は、曖昧に笑いながら、じゃあ最初っから言うなよと内心毒づいた。
ちゃんと言っておいた方がいいだろうと声をかける。
「島……さんでしたっけ?」
「仲島だけど」
「ご、ごめんなさい」
シフトもあまり被ることがない上、
興味がなかったので名前もうろ覚えだった。
バイト仲間の名前くらい憶えとかなければ。
内心で反省し、きりっと表情を整えた。
「付き合っている人がいるので、誘われても困ります。
申し訳ないですけど」
結局釘をさすことになってしまった。
わざわざ彼氏とか職場で話したくなかったのに。
「……分かった」
明らかに沈んだ様子に、ちょっとだけ悪いことをした気になるが、
変に期待を持たせたら相手を余計に傷つけることになる。
まさか興味を持たれるとは。
不思議に思う。涼は確かに色っぽいと言ってくれたが
それは彼に対してだけだ。
去って行った相手をちら、と見やって、ふうと息をつく。
(雑談もしたことがないのに、変な人)
着替えて帰る頃にタイミングよく携帯が鳴ったので
トイレまで猛ダッシュした。
『お疲れー』
『タイミングよすぎ』
『終わる時間言ってたやんか』
『……そうだった』
『俺も終わったところやで。
菫子を待つのもええけど、どうせなら迎えに行こうか』
『いいわよ』
『それは、OKか拒否どっちや』
『来なくていいです。待ち合わせ場所にいてください』
『頑なに拒否かい。じゃあ待ってるで』
あっさりと承諾され、胸をなでおろす。
やましいことなんて欠片もないが一人で帰ろうと思ったのだ。
菫子は他の店員とバトンタッチし慌ただしく店を後にした。
駆け足で、地下鉄の階段を降りる。
数分待ってやってきた電車に乗り込んで、携帯を握りしめた。
早く涼に会いたかった。
「うわ、どうしたん。そんな泣きそうな顔で」
「泣いてない」
息を乱して、待ち合わせ場所のファミレスにやってきた菫子は
涼の顔を見て、あろうことかうるっときた。
「待ったでしょ」
「5分くらいかな」
ぽんぽんと隣りに座るように促され、菫子は腰を下ろす。
「何にする。俺はビーフカレーの気分やな」
差し出されたメニューを菫子は胸にしっかりと抱え込んだ。
中を開いて頭を下に向ける。
「何かあったんか」
背中にさりげなく回された腕が温かくてじんと染みるようだ。
「やっぱり涼ちゃんがいいなって」
「……また可愛いこと言って」
涼の腕の中にしっかりと抱きこまれた。
公衆の面前なのに、抵抗する気は起きずこのまま包まれていたいと思う。
「何か、バイト仲間の男の子に声かけられちゃって」
「ぶはっ」
涼は、グラスの水を勢いよく吹き出した。
今回はリアクションが派手なのは彼の方だ。
「なんて声かけられた」
「この後予定あるって聞かれたから、帰ってご飯食べて寝るって嘘ついちゃった」
涼は、口元とテーブルを拭きながら耳を傾けている。
「そしたら?」
「送っていくのも駄目だよね。ごめん聞かなかったことにしてって言われたわ」
「……ドへたれでよかったあ」
涼は、いかにも面白そうに笑いだした。
「付き合ってる人いるって釘刺しておいたから大丈夫よ」
「上出来やけど、急に不安になってきたな。
やっぱ迎えに行くわ。別に手間じゃないからそこは気にすんな」
「え……でも彼氏の迎えとか他の店員の目も気になるんだけど」
「彼氏がおるの嘘やと思われんですむやろ」
「……うん」
「というわけで場所を言いなさい」
命令調。しかも目が据わっている。
菫子は、はっきりと場所を告げた。
「よっしゃ。終わったら店内で待っとくんやで。他の客にまぎれてな。
外で一人でおったら危ないからな」
「警戒しすぎじゃないかしら」
「阿呆。そいつのことだけ言ってないわ」
「……甘えちゃうじゃない」
「菫子を甘やかすくらいの余裕はあるつもりやから」
涼は胸を張った。
「あのーメニューお決まりでしょうか」
突然の第三者乱入に菫子は、顔を赤らめる。
場所をわきまえようと自分に言い聞かせた。
「カレーライスで」
「ぺ、ペペロンチーノお願いします」
「かしこまりました」
店員を見送った後で、ぷくくくと涼は堪えきれない笑いを洩らした。
「笑い過ぎよ」
「ほんま飽きんなあ、すみれは。これからもその調子で頼むわ」
「……何か嫌な感じ」
「問題ないで」
菫子は、内心抗いながらも心が和むのを感じた。
口で言い合ったりできるのも彼しかいないのだ。
運ばれてきたペペロンチーノを食べながら、無意識に涼を見た。
彼は、カレーをかけ込む姿もいちいち男くさかった。
6.末期症状 8.マグカップ top