Pleasure
定期健診からの帰り道、手を繋いで歩きながら、
涼と菫子は他愛もないお喋りを交わしていいた。
「何か期待も高まるっちゅーか、実感沸いてきたなあ」
しみじみ呟く涼。
「もう、あと三ヶ月くらいか」
ほわあっと頭の中で鳥が飛んでいるような表情を
浮かべているのは妻、菫子。
彼女は妊娠7ヶ月目を迎えておりお腹も大分目立ってきていた。
「男かな、女かな。どっちでも可愛いんやろなあ、俺と菫子の子やし」
「バカ丸出しよ涼ちゃん」
菫子は天然毒吐きさんなのである。
つまり本人は無自覚できつい一言を放つのだ。
「……菫子の一言って一気に現実に引き戻すな」
「え、あっ、ごめん」
「俺だって負けるつもりないからええんやけどな」
「本気の涼ちゃんには勝てないわよー。本場のなにわ仕込みだもん」
菫子はふふふと笑った。
「水泳教室ってどうなん? 」
「妊婦友達も出来たし、気分転換にもなるしすっごく楽しいわ」
菫子は路上にも拘らずテンション高く声を弾ませて話す。
涼は楽しげな彼女の様子に目を細める。
「とっても綺麗な人なのよ。
さばざばしてて、結構ずばずば言う感じかな。
ふるまいや仕草でどこかのお嬢様だと感じたわ。私とは全然違うわね」
「ほお」
「気になる? 」
「いやいや俺にとっての世界一はすみれですから」
口調は軽いが、本気で言っているのが菫子には分かった。
「やっぱり涼ちゃんって好きだわ」
「当たり前のこと言うただけ」
菫子はぎゅっと涼の腕にしがみついた。
マンションの扉を開けても未だ手を離さない。
「さ、ケーキ作りよ! 」
「ほーい」
「何その変な返事」
「足手まといにならんよう気ぃつけます! 」
あまりにおかしくてお互い吹き出した。
最近のテンションは前よりずっと妙だ。
菫子のお腹が動くたびに涼は過剰に反応するし、
この夫婦には今現在危機的予感は何も感じられない。
今日はヴァレンタインデーである。
朝、定期健診を終えてそのまま帰ってきた二人は、
早速ケーキ作りに取り掛かろうとしていた。
平日だが、涼は有給が溜まっていたので
一日休みを取り、午前中は健診に付き添った。
実は今まで健診には菫子一人で行っていて、
涼は心苦しさを感じていたのだ。
仕事があるから仕方がないものの、菫子は不満一つ言わないので
涼が気遣わなければならない。
分かち合うのが夫婦だと彼は思っている。
出産の折には必ず付き添うと心に決めており、
出産予定日に休みを取る届けを
2ヶ月も前から出している愛妻家である。
誰かが欠勤したら休めなくなるから、早めに手を打つのに越したことはないのだ。
「菫子、予熱終わったで」
「じゃこれ、入れてくれる」
涼の声に菫子は生地を流した型を涼に渡す。
チョコレートの甘い匂いが辺りに立ちこめていた。
涼は、下ごしらえにはほとんど手を出していない。
スポンジケーキの間に生クリームを挟んだり、
上に飾りつけたりする作業を任されているからだ。
生地がちゃんと焼けてなければ、話にならないのだが、後の作業も中々
プレッシャーがある。ぐちゃぐちゃにクリームが乗っかっているのより
綺麗に盛りつけられたものの方が、見た目にも美味しい。
夫婦になって初めて一緒に取り組んでいるケーキ作り。
涼は未知の世界に触れるようで、わくわくと胸を躍らせていた。
ヴァレンタインは愛する人と一緒にケーキを作る。
勝手の分からない彼は、菫子の指示通りに動いているが、いきいきと楽しそうだ。
「涼ちゃん、子供みたい」
くすっと笑う菫子に涼はほんの少し頬を赤らめた。
「おもろいんやからしゃあないやろ」
「ふふ、紅茶入れなきゃね」
菫子はやかんを火にかけて椅子に座った。
テーブルクロスの皺を手で直すとにっこり笑った。
常々憧れていた真っ白なレースのテーブルクロスは汚れ一つない。
何枚も同じ柄のストックがあるのだ。
「ええ感じ」
涼は、一度取り出したケーキを竹ぐしで差して焼け具合を確かめた。
「じゃもう一回オーブンにGO! 」
るんるん調子で菫子は号令を出し、
「ラジャ」
冗談っぽく涼が返答した。
続いて涼が、生クリームを泡立て始めた。
泡立ては根気のいる作業なので電動を使う方が楽だが、涼は、しゃかしゃかと
リズムを刻み、クリームをあっという間に角が立つ状態にした。
「涼ちゃん、かっこいい。さすが男の人だわ! 」
菫子がぱちぱちと拍手する。
「ま、ざっとこんなもんやな」
とか言いつつ涼はぽりぽりと頭をかいた。
まんざらでもなさそうである。
「ねえ、涼ちゃんこっち向いて」
菫子は笑顔満面だ。
「はい、チーズ」
菫子は手のひらを顔の前に構えてシャッターを切るポーズをする。
涼は不思議そうな顔になった。
「だってすっごくいい顔してたんだもん」
「撮る真似でええの? 」
「忘れられるはずないでしょ」
想い出は吐息を零す間にも蓄積されていく。
ちょっとした会話も大切な記憶だ。
オーブンを見るとケーキが完成間近だというのがうかがえた。
菫子はキッチンミトンを涼に手渡す。
涼は喉でくくっと笑った。
「……反則やで」
無意識で虜にする菫子。
外見も少しふっくらしてママになる柔らかな雰囲気が漂っていて、
そんな彼女を守らねばと強く感じている涼だった。
菫子は顔を真っ赤にして俯き加減でお腹に触れている。
涼は、オーブンから焼きあがったスポンジを取り出すと皿の上に引っくり返した。
綺麗に型から抜けて見た目はまずまずの焼き上がりだ。
バターを縫ったクッキングシートを剥がす。
菫子が、ナイフでケーキを半分にスライスし、裏返した皿の上に乗せた。
「ここが腕の見せどころよ! 」
皿を回してスポンジにクリームを塗るのだ。
「うっわ、無茶や」
早くも弱音を吐いた涼に菫子はにっこり笑う。
「じゃあ回転するやつ今度買ってね」
「ええよ」
涼の即答に菫子は吹き出すのをこらえた。
菫子が切った苺を生地の上に乗せて生クリームを塗り、
半分にスライスした生地を重ね合わせて仕上げにかかった。
普通にヘラで塗るよりも絞り袋で飾る方が難しい。
少し斜めにしながら慎重に絞り出していく。
真剣そのものの表情の涼を見て、菫子は彼の会社での姿が浮かぶ気がした。
「よっしゃあ! こんなもんでどうや? 」
「うん、すっごくいい感じ! 後はここに苺を置いてっと」
菫子が苺を等間隔にデコレーションケーキの表面に載せていった。
ふと顔を上げた時、涼の顔の一点で視線が止まった。
「あ、涼ちゃん」
菫子は背伸びをして涼の頬に唇を寄せた。
ふいをつかれた涼は、目を見開いて驚いている。
「生クリームついてた」
ぺろっと唇を舐める菫子。
「美味かった? 」
「……首が痛い」
自分でしたことだが相当照れているようだ。
誤魔化すように別のことを言う所なんて照れ隠しそのものだ。
「そりゃあ、すまんかったな」
大人と子供分の身長差があれど、心の距離がある二人ではない。
涼は椅子に座ると菫子の腕を引き自分の膝に座らせた。
「涼ちゃ……」
「これでゼロや」
膝の上にいる菫子と目線を合わせて、にーっと笑う。
「うん」
菫子は嬉しそうに頬を緩めた。
「あーん」
涼は包丁で切ったケーキをフォークで
突き刺すと丸ごと菫子の口に放り込む。
口いっぱいに頬張った姿は、まるでリスが
頬袋に食べ物を溜めている様子にそっくりだ。
「……うぐ」
一生懸命咀嚼する菫子に、口の端を吊り上げる涼。
何だかんだ好きな子をついいじめてしまうタイプなのだ。
愛情たっぷり込めて。
涼が菫子に顔を近づけると彼女はじたばたもがいた。
だが腕で押さえつけて逃がさない。
口を触れ合わせると涼の口の中にもケーキが、運ばれる。
正確にはほとんど形が残っていないケーキの欠片だが。
口の端に着いた生クリームをぺろりと舐めてお互いの顔を見つめあう。
「汚いじゃない。そんなことしなくてもまだあるでしょ」
「菫子の口から食べたかったんやもん」
「涼ちゃんって変態だったのね。知ってたけど」
「菫子の前だと我を失くすんやわ」
「誉められてるの? 」
菫子は、真顔で聞いた。
「もちのろん」
平然と返す涼に一瞬考え込んだ菫子である。
「菫子は俺の前で変なことしてまうやろ。
そういうこと。心許してる者の側にいるからや」
「それなら分かる……かな」
「せやろ」
涼はよしよしと菫子の頭を撫でた。
まんまとのせられたことに菫子は気づいていない。
解釈の仕方でどうにでもなることなのだが。
ケーキを食べるのを再開する。
次は自分の番とばかりに今度は菫子が、涼の口にケーキを放り込んでいた。
一口大に切ったものをフォークで刺して。
もぐもぐと頬を動かしている涼を菫子はまじまじと見つめている。
「美味しい? 」
「うん」
菫子ははにかんで微笑むと涼にぎゅっとしがみついた。
お腹の膨らみのせいで隙間があるけれど、密着していることは変わりなく。
木にへばりつく蝉のように抱きついている菫子の髪に、涼は顔を埋める。
「もっと甘えればええ。まだ俺には足りんくらいや」
菫子の頬の熱が涼に伝わる。
椅子がぎしりと音を立てて軋んだ。
「寝よか」
涼が耳元で、小さく囁いた言葉に菫子はこくりと頷いた。
身重の菫子を涼は軽々と抱き上げて寝室に運ぶ。
ベッドに寝かされて、腕枕をされた時になって菫子ははっとした。
「ケーキ、冷蔵庫に入れなきゃ」
「冬やし、ちょっと位傷まんやろ」
「生ものなんだから」
起き上がろうとした菫子を制すると涼は、もう一度キッチンに戻った。
ケーキにラップをかけて冷蔵庫にしまうと寝室に戻る。
菫子は体を横に向けていた。
「ありがと」
「いえいえ」
涼は再び隣りに横たわると静かに菫子の体を引き寄せた。
暖房なんて必要ないくらい温かかった。
優しい温度を保っている菫子に、涼は温められている。
菫子の髪に触れたままで瞳を閉じて。
菫子はいつの間にやらすうすうと寝息を立て始めていた。
平日に昼寝するのは休日よりずっと
贅沢だなと涼はしみじみ感じていた。
桜の花びらの雨が舞い散る穏やかな春の日。
いつか夢見ていた二人の愛の結晶が、この世界に誕生した。
元気な男の子である。
「どっちに似てるかな? 」
菫子は屈託ない笑顔を夫の涼に向けた。
涼は出産予定日きっちりに生まれてきた我が子を愛し気に見つめている。
その顔は、すっかり父親だった。
菫子のお腹の中で育つ子供と一緒に
涼の中の父性も成長していったのだ。
目尻に浮かんだ涙をごしごしと腕で擦っている。
「このおっきな目は菫子で、下唇が厚いのは俺? ……
まだ生まれたばかりで分からんわ! 」
涼は声を荒らげた。だが頬は緩めたまま。
「そうね、猿みたい」
クスクスと声を立てて菫子は笑う。
「手なんて、ぷにぷにや」
指先で触れてみると余計に温かさが伝わってくる。
赤ちゃんは体温が高い。
いつまで見ていても飽きないといった感じの涼。
菫子は、壊れ物の扱うように我が子を抱く夫の姿を微笑ましく見つめた。
「考えてた名前、覚えてるよね」
菫子の合図に一緒に息を吸い込んで声を紡ぐ。
「「奏」」
読み方は「かなで」だ。
涼の名前とあわせると涼を奏でる。
男の子と女の子のどっちが生まれてもこの名前にしようと決めていた。
「音楽関係の習い事させたいなあ」
「今から言うのは早すぎ。目ぇ開けてもないのに」
現実的な涼に菫子は、あははとから笑いした。
気ばかり急いてしまう。
この小さな姿に夢が広がる。
「そうだね、これからまだたっぷり時間はあるもの」
「それが分かったらもう寝る」
涼は有無を言わさず布団をかけた。
産後間もない体に無理は禁物だ。
生まれてから、一晩経ってはいるがまだ安静にしていなければならない。
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、涼ちゃん。起きたらまたいるかなあ」
「会社帰りに寄るから」
菫子は微笑むと、瞳を閉じた。
涼は名残惜しいながらもベビーベッドの中に、我が子を寝かせて病室を後にした。
三人で手を繋いで歩んでいこう。
辛いことも皆が一緒なら、喜びに変えていけるから。
宝物を見つけた二人の明日はきっと輝いている。
終らない未来へ。
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