恋心はそっとしまって、手をつなごう。
焦らなくても時間はあるのだから。
7、抑え切れない思い
振り返った瞬間、涼と目が合った。
捕まれた腕ごと引き寄せられ、抱きしめられる。
息もできないほど強い力で。
「……こんな所で何するのよ」
菫子の訴えに涼は力を緩めたが、決して腕を離さなかった。
自転車やらバイクが置かれている駐輪場で。
「離してって意味なんだけど。こんなでかい図体の人
相手じゃ抵抗できるわけないんだから!」
ぎゃあぎゃあ喚く菫子。
愛しい人に抱きしめられて嬉しいなんて脳天気に考えられる状況ではなかった。
薫を裏切ったことになるし、それに場所の問題もある。
色々複雑な感情が込み上げてきて菫子は涼の体を押し返そうとした。
が、びくとも動かず余計に力を込められる。
「馬鹿力! 変態! 」
さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへやら。
菫子をようやく解放した涼は、溜息をついた。
菫子は溜息にむかっとしながらもあっさり離してくれたことに
拍子抜けしていた。
階段を下りる人々が何人も通り過ぎてゆく。
菫子が、呆然と涼の顔を見上げているとひょいと体が浮いた。
「下ろしてってば」
涼の背中に負われる羽目になりパニックに陥る。
「がたがた抜かすなや」
半ば切れている涼の目は据わっていた。
背中を叩こうが、無駄な抵抗に過ぎず菫子は恥ずかしさやら
色々な気持ちがないまぜ状態である。
涼は菫子を横抱きにすると、二輪車置き場に停めていたバイクに乗った。
後部座席にすとんと董子を下ろし、ヘルメットを手渡す。
「どこ行くの?」
「いつものあそこ」
「河原?」
「正解。バイクで飛ばしたら気持ちええで」
「ちょっと、待って」
菫子の訴えも虚しくバイクは有無を言わさず走り出す。
落ちるといけないので腰にしっかりとしがみつく格好になった。
菫子は怒って背中をぽかぽか拳で叩く。
「ってえ……事故ったらどないすんねん」
「誘拐犯!」
「誰が誘拐犯や」
「聞き返す辺り痛いの分かんないの?」
「……ええから今は黙って乗っとけ」
「むぅ」
菫子は渋々納得した。
強引過ぎるわ! 信じられない!と内心では色々文句を言っている。
静かになった菫子に安心したのか涼はバイクのスピードを上げた。
大学から大した距離もないためあっという間に河川敷に辿り着く。
バイクから降りて二人は階段を下りていく。
川縁はさすがに寒くて冬が近いことを感じさせる。
涼の服装は革ジャン、革パン、革グローブだ。
菫子は手袋を嵌めて防寒対策をした。
二人は一番下の段に座った。
二人分のスペースは離れて座った菫子に涼が、笑った。
距離を空けたのは、恋人同士でも何でもないからだ。
そんな菫子を横目に見やりつつ涼は距離を詰めたりはしない。
彼も分かっているからだ。
二人の間には暫く沈黙が支配していたが、ふいに菫子が漏らした一言で沈黙が破られた。
「別れるのってそんなに簡単なの?」
涼は、答えなかった。
か細い声は答えを求めていないと思えたから。
涼にしても答えづらい問いではあったが。
「二人には上手くいって欲しかった」
「そりゃまた、お人よしの菫子らしい台詞やな」
冷めた涼の台詞に菫子は勢いよく隣りを振り仰いだ。
涼は無表情で川の方を見つめている。
「今日、薫さんがうちに来たわ。普段と違ってお化粧もしてなくて
地味な印象を受けた。あんな彼女初めてで驚いた。
涼ちゃんのことを考えてなかったってすごく辛そうな声で
後悔してたのよ。薫さんの必死の想いを聞いて
応援しようって思った。どちらの味方でもなく中立で。
あれから二人で話して上手くいったと思ってたのに」
「薫は昨日俺の部屋にいた」
涼はフッと自嘲の笑みを浮かべた。
どくんどくんと心臓が鳴り響く。
昨夜は涼と一緒にいて、化粧もせずに飛び出してきたのか。
ピアスだけ身につけた姿で菫子の所を訪れる前は、彼と一緒にいた。
「薫さんは、きっと終わりだなんて思ってないよ」
「それでも俺らは無理や」
あの時、駄目になりそうだと菫子に告げに来たけれど
終った後での台詞だったというのか。
そうは思えない。あの薫がきっぱり別れを納得するだろうか。
菫子から見ても怖いくらい涼に執着していたのだ。
多少愛し方は間違っているかもしれないが、
涼のことを一心に愛していることは疑いようがない。
「薫さんに連絡取ってここに来てもらうから」
涼が止める間もなく、菫子は携帯を取り出し短縮ダイヤルを押した。
「薫さん?」
「こんなに早く電話くれるとは思わなかったわ」
くすりと笑う薫の声。
「今、河川敷にいるんだけど、来てくれる?」
「涼もいるのね」
「うん」
吐息を吐き出す音が聞こえた。
「分かった。なるべく早く行くわ」
菫子が電話をして15分程経った頃薫はやって来た。
会話もなく川のせせらぎだけ聞こえる河川敷に、薫の足音は酷く賑やかに響いた。
スリムジーンズの上からチェーンのついた黒い革の
ショートブーツのスタイルは
長い足が余計に長く感じられた。
自分に似合う格好を知っているどこから見ても大人の女だ。
朝の冴えない彼女とはまるで別人。
これが本来の三谷薫だ。
風に吹かれる横髪を耳にかけながら、颯爽と階段を下りてくる。
彼女は菫子の隣りに腰を下ろした。
菫子は右隣に涼、左隣に薫の間に挟まれる形になった。
薫は清々しいほどの笑顔を浮かべている。
プライドの高い彼女らしく惨めな姿を二度と見せることはなかった。
「薫」
涼が気まずそうに薫を見た。
彼の言う事が真実なら別れたばかりの元恋人同士ということになるのだから当然だろう。
「あら涼、何でそんな顔してるの」
薫はくすくすと笑う。
「この私を振ったんだから、自信持ったら」
「薫さん、涼ちゃんと別れたのは、私の所に来る前なんだよね」
「そうよ」
悪びれもなく薫は言う。
「じゃあ、どうして今朝」
「菫子ちゃんって良い子すぎて苛々するわ。
もう少し人を疑うこと覚えた方がいいんじゃないの」
菫子は訳も分からなくて口を噤んだ。
「まだ分からないの。試したのよあなたを」
あれが全部嘘だったと言うのか。
あの時見せた涙も吐き出した弱音も全部。
試していたのも本当だろうが、あの涙は偽りではないはずだ。
涼を想って泣く一途な女性の姿が目に焼きついてはなれない。
ここまで憎まれようとしなくてもいいのに。
辛い思いをさせられたとはいえ憎めない。
菫子は、あくまでも強気の薫を可愛いと思った。
何故か不思議とそう思えたのだ。
「まったく、一度くらい立ち向かってほしかったわ。
遠慮ばかりしちゃって。私が貴方の立場だったらお兄ちゃんを取られたくないわよ?」
お兄ちゃんを強調した薫に菫子は顔を赤らめた。
「俺はお前を好きやった」
「分かってるつもりよ」
「だけど愛せなかった。薫の思い通りの男やなかったんや、今までごめん」
開き直ることは、しない。
涼はただ謝った。取り繕うのは情けないし、
余計に傷つけることになるからだ。
「二人とも嘘つきよね。振り回されたこっちはたまったもんじゃないっての」
菫子は飲み会で薫が言った言葉を思い出す。
薫は、用は済んだとばかりに立ちあがった。
ブーツの音を響かせて階段を上がっていく。
途中で振り返った薫は驚くべき事実を告げた。
「私と涼って、一度だけで、ずっとプラトニックだったのよね。
いちいち話してあげる筋合いもないんだけど。
大事すぎて手を出せないでいたあなたに勝てるわけないわね」
さばさばと話す薫に、菫子は、二人を見比べる。
涼は、取り乱す様子もなかったが、微妙に視線を逸らしていた。
何が一度だけかは、菫子にも一応分かった。
「まあ、ほんまのことやな」
「抱いてって言ったのに拒んだわね……最後の夜は、
忘れられないくらいに激しく傷つけてくれたらよかったな」
薫の表情は清々しいまでに綺麗だ。
熟れた林檎の頬の菫子だったが、決して耳はふさいでいない。
興味津々で、続きを待っていた。
涼は菫子の図太さに感心しながらも薫との会話を続けた。
「阿呆か……そんな別れ方したら友達にも戻れんやろ」
「……やっぱり、いい人ね。だから嫌いになれなかったんだけど」
薫は、寂しそうな笑顔を涼に向けると階段を上がり橋に向かって歩いていく。
嵐が去ったようようにその場はしんと静まり返った。
「菫子ちゃん」
上を見れば橋の上から薫が手を振っている。
「涼を幸せにしてあげてねー」
薫はウィンクすると思い切り明るく微笑んだ。
「うん、任せといて!」
薫の勢いに飲まれた菫子は自信満々に返事した。
涼はわしゃわしゃと頭を掻き毟っている。
菫子は別れ際の二人を目撃した第三者となってしまった。
「……複雑な気分」
「せやろな」
涼は苦笑いしていた。
ちら、ちらと涼を見上げ、さりげなく離れようとした菫子の手をつかむ。
きっ、と睨み、足を踏もうとしたが、すんでの所でかわされる。
悔しさで地団駄を踏む菫子であった。
口元で笑う涼は悪い顔をしていた。
「菫子に悪いことしてないよなあ」
「ちょっと感情的な問題がね」
(薫さんは、それほど涼ちゃんを好きだったってことよね。
……同じ日に好きになってたの。この野獣を!)
「薫さんって、涼ちゃんにはもったいないわ。大人だものね」
「……菫子、お前もすごいわ」
「え……」
「薫は、菫子やったから、認めてくれたんやろな」
大きな目を瞬きさせて、涼を見つめる菫子の頭に大きな手のひらが被さる。
髪を乱暴にかき混ぜられて、困惑する。
せっかく整えた髪も、乱れてしまった。
それでも嫌じゃなくて、触れられることが、嬉しかった。
(今はこれで、十分)
「その場の勢いだけだった?」
気持ちを伴っていたかと言うことだ。
「……大胆やな。その方がええけど、後々のことを考えても」
「ごめん、そこまで聞く必要ないのに」
都合良くごまかされたことに気づかず菫子は項垂れ、反省した。
ぴょこんと、耳がたれているように見える。
「菫子だったら、どうやった?」
「考えられないわよ。順序ってものがあるでしょ」
「男に免疫ない女が用もなしにあんな所行くと、痛い目見るんやで。集まりにもよるけど」
ずばずばと、言われたが言い返せない菫子だった。
恋人が欲しかったわけじゃなかった。
結局、恋を見つけてしまったのだが。
「あの時は俺が睨み利かせてたおかげで、どいつも声なんて掛けられへんかったけどな」
「涼ちゃんが、私に声かけたのって、心配だったからなの?
あの場で浮いてたことくらい気づいていたわ。
心配しなくても声なんて掛けられなかったはずよ」
自分のことを意識もしていない菫子に涼は、はっと気づく。
それは、薫には聞かせられない想いで。
今更でも別れた相手をこれ以上踏みにじる権利はない。
「……はあ」
「感じ悪いため息!」
「ええよ、菫子はそのままで」
くっく、と笑って涼が立ち上がる。
「菫子の気持ち聞かせて」
「今はお断りします」
菫子はきっぱり言い切った。
「別れたら早速次の恋なんてお手軽すぎない? 」
「それは」
「私は不誠実な人を好きになったわけじゃないんだからね」
「言うてるやん」
ニヤニヤ笑う涼を菫子はきっと睨んだ。
「うるさい。揚げ足取らないで!
とにかく今は付き合えないからちゃんとした告白もしないの」
「真面目やな」
「当たり前でしょ。まさか別れてすぐ私に乗り換えられるだなんて思ってた?」
「いや、思ってない。俺も菫子と同じ気持ちやった。
暫くこのまま友達でいような。あ、俺が我慢利かんかったら堪忍」
出逢ったあの時よりも確実にかわいらしく、魅力的になっていた。
薫に対しての態度も含めて、好ましかった。
「我慢できへんかったら、堪忍」
わざわざ腰をかがめて、
耳元でささやく。
ククッと含み笑いする涼に菫子は半ば呆れた。
それでも好きになったことを後悔しようとは思わない。
「女の子が抱いてとか言うのすごく勇気いると思うよ。
決死の覚悟だったんじゃないかな」
「……分かったようなことを言う」
「男の人のことは分からないけどね」
「ちっとは、分かる努力して欲しいもんやけど」
ぼそっとしたつぶやきは風にかき消える。
きょとんと、涼を見上げて、立ち止まる。
「何か、お嬢さん?」
にやつく姿がやけに似合う。見上げてもなかなか視線が合わない。
腰をかがめてもらってちょうどのコンパスの差。
ぶんぶん、と首を振って反対側を歩き出す。
「おい、菫子」
「男友達と親密すぎるのもおかしいでしょ」
「たとえば、菫子の経験を話すとか」
「そうそう、友達同士なら言わないわね」
くすくすと誤魔化す。
かろうじてかわせたかなと菫子は内心でほくそ笑んだ。
「十分、俺の事情に介入してるやろ」
危険を察知した菫子は、一目散に逃げて距離を取った。
(忘れるところだった。この人野獣だ。手が早いんだわ!
そうね、これからは距離を考えないと。なし崩し的は、いやよ)
離れた場所から口元に両手を当てて言い放つ。
「それじゃこれからよろしくお願いしますー涼兄ちゃん」
にっこり笑う菫子はつわものだ。
本当は、お兄ちゃんみたいだと思いこもうとしていただけ。
異性として見ていることを意識したくなかったし、知られたくなかった。
「何が兄ちゃんや。出すときは出すから覚えとけ」
「何か言ったー?」
「いんや」
二人はどちらからともなく笑い合った。
それからバイクで暫く走った後、菫子のマンションの前で二人は別れた。
友達以上恋人未満の関係が崩れるのは、もう少し先の未来。
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